人類は衰退しました 「じかんかつようじゅつ」編(7,8話)について


7話のアバン。遠目に見るシルエットが犬と人間(わたし)との間で揺れるが、犬が鳴くことで犬であるという認識が確定し、いったん認識してしまうと犬以外の何者にも見えない。この犬の鳴き声というのは「個性」であり、「じかんかつようじゅつ」編は「認識」を根拠付ける「個性」を巡るお話だ。
大雑把に言って7話が謎かけ編で8話が謎解き編だが、主観と客観ということもできる。8話は「わたし」の俯瞰的なモノローグが入ったり右下にループ回数と時刻が出たりとあからさまだが、分かりやすいだろう。もう少し映像を見ると、7話では「わたし」の辿る経路が内周的に捉えられるのに対して、第8話では「わたし」の辿る経路が外周的に捉えられる。たとえば女医さんと落ち合う広場の噴水をナメてのツーショットは第7話にはない。この噴水というのは中央から湧き上がる水がバナナを思わせて、今回の騒動の縮図のようなモチーフであり、これが映ると俯瞰的な位置に立たされるのである。ほかにも、「わたし」と女医さんの会話線を跨ぐこと、つまり「わたし」の経路の外部というカメラポジションは第7話には無かった。7話では常に「わたし」の動線の内側にカメラポジションを取っている。
主観/客観にという区分に合わせて、7話,8話で登場する「個性」の表象も、内的か外的かに分かれる。7話はまぁ犬の鳴き声くらいしか明示的なものはないが、8話では拳銃・女医さんのほくろ・アロハ・テンガロンハット・腕日時計とある(7話から登場していても、「個性」というテーマに沿って意味を帯びてくるのは8話から)。


「個性」という主題が登場してくるのは、妖精さんたちの「無個性」の反動である。『人類は衰退しました』では、妖精さんはどうやら分裂かそれに準ずる手段で増えているらしい。妖精さんのデザインが没個性的なことや、旧人類の真似をしたがることなどもその生態のせいであるように思えて、とかく彼らはオリジナリティという概念から縁遠い。彼らがクローンという発想に真っ先に行き着いたのもそのせいで、クローンを「わたし」に禁止されても結局時間というものをクローンし始める。画一的なループを繰り返し、「無個性な時空」を作り出してそこに「わたし」を誘う。
画一的、と書いたが全く同一という意味ではない。行動パターンの変化(振幅)がある一定の振れ幅に収まっているという意味である。ところが、4周目と5周目の間、カウント外の反復(以下4.5周目と呼ぶ)はその臨界値を大きく逸脱する。具体的に見ると、まぁ広場のカメラアングルから何から違うのだが、例えば広場と事務所を結ぶ道を見てみる。この道での「わたし」の行動の振れ幅は本来前後方向にしかない。後方の犬が気になるとか、行き道か帰り道かの違いとか、そんな感じの振れ幅である。しかし4.5周目だけは道を横切る。
これは妖精さんの言うところのバグ(突然変異)であるが、数ある反復と比較してこれ自体を「個性」と言えるだろう。5周目の「お茶会」でこれまでの反復が総括されて形成される「助手さん像」として、私の願望のほかにこの「個性」が反映される。それはいわば「有性生殖」のプロセスである。


「個性」とはどのようなものか。女医さんの台詞と「わたし」のモノローグからすれば、関係性(他人との違い)から規定される形質といえる。旧人類は関係性の中に生きている。「言語」が旧人類の思考形式(前回のエントリ参照)の第一の特徴であるように。妖精さんのコピー慣習の起源が分裂とすると、旧人類の「個性」という機構の起源も「有性生殖」に求めていいだろう。4.5周目の「幼いお爺さん」の「生きることを極めてーの」って台詞はその辺にかかってくると思う。そして、8話の「個性」のモチーフは同時に「男性性」という意味も帯びている(女医さんのほくろは当然違うが、あれもフェティシズムと見れば「女性性」にかかわるかもしれない)。
人類は衰退しました』において、「異性」というものが描かれることはじつは少ない。妖精さん有性生殖しないし、P子さんたちは表面上の性別があるにしても生殖しないし、Yは男性同士の営みにしか興味ないからである。有性生殖のような面倒な事が必要なのはYを除く旧人類だけだ。「おさとがえり」編で遭難したとき(前回のエントリ参照)のように、「動物」であることはいろいろと面倒事を呼ぶ。しかしそれでも、「動物」であることは旧人類の欠陥ではない。『人類は衰退しました』全体で見たとき、このエピソードの核心はその点にあると思う。


6周目。広場で待っているのは私たちのよく知るいつもの助手さんである。だがこの時点で、私たちの認識の未だ及ばない形質がある。7話冒頭で提示された「声」ある。ここで、外的な形質から内的な形質へと回帰する。助手さんは目で語るんです、とでもいうかのようにこれまで誤魔化されてきたが(一応それはそれで十分な「形式」なのだが)、言語が旧人類の思考形式の特徴である以上、「声」にこそ助手さんの「男性性」が封じられているはずなのだ。渾身のジョークが、少し意外なくらいの福山潤ボイスで呟かれる。助手さんの声に対する「想像の振れ幅」の終点として、この上なく相応しいように思う。

アニメ版『人類は衰退しました』 「妖精さんの、おさとがえり」編に対する批判


アニメ版『人類は衰退しました』は楽しく見ていましたが、アニメ版の「おさとがえり」編はちょっと良くないなと思ったので原作に寄りかかって批判をさせてもらいます。5,6話についてはアニメ版に全く好意的ではないのでご勘弁を。あと原作信者がうるさいなとか思う方もご注意を。実際そのとおりなので。


「おさとがえり」とあるが、そもそもまず故郷とは何か。妖精さんにとっては「電磁波の圏外(童話的世界)」であり、人間さんにとっては「都市遺跡(妖精さんの居ない世界)」であり、パイオニアさんとボイジャーさんにとっては「地球」である。さらに「故郷」というテーマは種の起源という意味も含んでいる。妖精さんにとって童話というのは種の起源でもあるだろう。人間さんにとっては、本質的に動物であるということ。『人類は衰退しました』における人間さんと妖精さんの大きな違いの一つは、人間さんは結局のところ生命維持活動に時間を拘束されてしまう動物に過ぎないということである。だから5話の遭難中、乾きに苦しむステップは本来飛ばせなかったはず。例えば原作だと助手さんが残り少ない水を一気に煽ってしまう場面(動物的本能に支配される場面)とかね。あんなにあっさりと妖精さんに出てきてもらっては困る。
イオニアさんとボイジャーさんの起源というのは6話のストーリーの基幹である。終盤で語られている内容で基本的に問題ないが、一つだけ抜け落ちていることがある。彼らは後世になって改良が施され、いわゆる人工知能のようなものが搭載されているということである。まぁ喋って動いているのを見れば明らかなのでアニメ版では無くてもいいだろ、という見解もあるだろう。しかし、詳しいSF的機構は適当でもいいから台詞でも改めて説明しておくべき部分だったと私は思う。その理由は彼らの「思考形式」がどういうものであるかをなんとなく匂わせておくべきだからであり、詳しくは後述する。


「故郷」には童心に帰るみたいなニュアンスもあるかもしれないがそれはさておき(その部分はうまくやれてたと思うので)、パイオニアさんとボイジャーさんの会話から推察されるもう一つの重要な意味がこの言葉には掛かっている。つまり「意識」の起源である。彼らには人工知能が搭載されているが、ボイジャーの話によるとはじめから「意識」はあったということになる。これは「ひみつのこうじょう」編を参照すると分かりやすい。「ひみつのこうじょう」編は妖精さんの道具にはどれも意識が備わっていて、たまたまそれを「表現する」方法を備えた加工済みチキンだけが暴走できた、という話だった。つまりパイオニアさんとボイジャーさんに搭載されている「人工知能」(付属している入出力器官も一式で)もまた、本来備わっている「意識」を表現する形式、ということだ。
「意識」とは何なのか。原作でもアニメでも「はじめからあったもの」以上の答えは今回用意されていないが、今回のエピソードで明確に言えるのは、「意識」なるものと「知能」(思考形式)が区別されているということだ。これは原作7巻で明かされることなのでここで引用するのは少し卑怯だが、7巻で「わたし」は同じように人工知能を相手にして「自分と同じような条件の知性でなければ認識できない」というふうに分析している。「認識」は「思考形式」のほうに依存する。まぁ探査機さんは入出力器官一式がデジタル式なので当然かもしれない。だから1ビット単位で思考する探査機さんたちは0/1の論理の世界から解き放たれた妖精さんを「認識」できない。しかし、より根源的なところで、3種族に通底する「意識」なるものがあるらしい。それが今回、任務遂行を目の前にしていながらそれを「認識」すること叶わなかった探査機さんたちの救いである。
「わたし」が受電設備を破壊するのは、何も探査機さんたちが故郷で安らかに眠ることを望んでいるから、というだけではない。探査機さんたちの任務は彼らの起源であり、軽んじていいわけがない。彼らの探す未確認知的生命体=妖精さんとの(将来的な)相互理解の可能性を、「わたし」は信じているからである。原作には終盤にもう一度あるはずの、ボイジャーさんが妖精さんを認識しようとして失敗するところや、そのことに対する「わたし」の感傷など、ちょっとでもいいから触れなければならなかったと思う。それどころかアニメ版では「いいじゃないですか、OYAGEさんで」である。何を言っているんだキミは、と言いたくなる。それでは何のための「おさとがえり」なのか。


上記のような理由で「おさとがえり」編の前座として「ひみつのこうじょう」編を持ってきたと思っていたんだが、どうも違ったらしい。もともとあまりアニメ化しやすい小説には思えないし(1〜4話は良かったと思うが)、そのうえ色んなネタがてんこ盛りの300ページ超の長編を2話で片付けろ、ってわけだから難しいんだけど、それにしてももうちょっとやりようはあったんじゃないかな。猫とオウムガイのじゃれ合いは可愛いかったんだけどね……

話数単位で選ぶ、2011年TVアニメ10選

今年も話数単位で選びます。


GOSICK 第12話「夏の午後に蝉の声を聞く」(脚本:岡田麿里/絵コンテ:数井浩子/演出:和田純一)
アスタロッテのおもちゃ! 第4話「パーティーのアンパサンド」(脚本:赤尾でこ/絵コンテ・演出:京極尚彦
花咲くいろは 第10話「微熱」(脚本:西村ジュンジ/絵コンテ:篠原俊哉/演出:羽生尚靖)
バカとテストと召喚獣にっ! 第11話「雄二と翔子と幼い思い出」(脚本:関根アユミ/絵コンテ:笹原嘉文/演出:福多潤)
へうげもの 第26話「呪われし夜」(脚本:川崎ヒロユキ/絵コンテ・演出:モリヲカヒロシ)
輪るピングドラム 第18話「だから私のためにいてほしい」(脚本:幾原邦彦伊神貴世/絵コンテ・演出:山内重保
ましろ色シンフォニー 第7話「たそがれ色のブランコ」(脚本:浦畑達彦/絵コンテ:ウシロシンジ/演出:荒井省吾)
UN-GO 第6話「あまりにも簡単な暗号」(脚本:會川昇/絵コンテ:五十嵐卓哉/演出:中村里美)
Fate/Zero 第10話「凛の冒険」(絵コンテ:桧山彬/演出:小笠原篤)
境界線上のホライゾン 第12話「平行線上への相対者」(脚本:砂山蔵澄/絵コンテ:今泉賢一/演出:青井小夜)


ルール(去年とおなじ)
・2010年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・放送順(最速に準拠)に掲載。順位は付けない。


いくつか選んで簡単なコメントを。


花咲くいろは 第10話
今年最も活躍したコンテマンのひとりに、アニメ版『戦う司書』の監督・篠原俊哉さんが居る。今年は『戦う司書』がTOKYO MXで再放送されたり異様に安いDVD-BOXが出たりと、『戦う司書』ファンにとっては何かと朗報が続いたが、篠原監督が仕事をしまくったこともその一つに挙げられる(本当にお疲れ様です…)。
おかげで良いものをたくさん見られたのだけど、その中でベストワークかなと思った『花咲くいろは』の第10話を選んだ。とても凝った作りになっていて、見ていると時間の感覚が曖昧になってくる。赤色と昇降の動作によって二段ベッドの上段はまるで小さな神社のように見立てられ、そのなかで緒花は告解をする。流石に部屋の配置が元々そういったイメージで作られているわけでは無さそうだが、それを工夫して非日常を創り上げた腕前に驚嘆。


UN-GO 第6話
戦う司書』第4話では読まれるべき人へ「手紙」が届くという奇跡が語られるが、『UN-GO』第6話はラスコール・オセロの側に照準した物語だといえる。幾つかの断片から物語を紡ぎだす「書き手」、探偵とはそのような側面を持っている。海勝麟六の「引用文」は不倫の告白と取れるのだが、暗号の真相がどちらであろうとも矢島にとって「読まれるべき手紙」には違いなかった。ならば、麟六の示した「真実」、それを前にしてなおきみは私を告発できるか……とでも言わんばかりに、麟六は不敵な視線を投げかける。「あまりにも簡単な暗号」を前にして、敗戦探偵はそれを解くことができない。
第6話は『UN-GO』の中で最も意地の悪いシナリオだと思う。麟六の視線で背筋が凍った。


境界線上のホライゾン 第12話
『ホライゾン』は10話・11話のアクションの組み立てが本当に巧いんだけど、ひとつ選ぶなら「弁舌」回を選びたいと思った。彼らの弁舌は、第5話で散った老人たちへの手向けでもある。多くを語らずに去っていった老人たちに報いるかのように、未来を託されたトーリくんたちは弁を尽くし討議を重ね、慎重に歩みを進めていく。そして第12話、トーリとホライゾンの二人は平行線(=互いに公正な立ち位置)からひとつの結論を導き出す。平行線を敷く二人の間には、互いに手を差し出す接点があると。
『ホライゾン』の1クール目は第6話以降、誠実な歩みを見せるところが好印象だった。2クール目も期待。


へうげもの』の話数選定に難航しました。他にも10話とか18話とか、良いんですよね。生きている人間が欲にまみれている中で、颯爽と退場していく姿が。悩んだ末、「いちばん美しく死んだ」丿貫回を選びました。
今年はいい作品がたくさんありました。来年もいい年でありますよう。

『ましろ色シンフォニー』第7話までとウシロシンジさんについて

ましろ色シンフォニー、毎週楽しく見てます。どういう人脈かは存じ上げないが、『神のみぞ知るセカイ』やってた方々がコンテを切る回と、ウシロシンジさんとその一門(?)がコンテを切るNOMADグロス回が交互にあるようで、面白いのは断然NOMADグロス回(望月智充さんの回も良かったけど)。


NOMAD回のお二人(ウシロシンジさん、伊能樹さん)は奥行きを使ってキャラを縦に配置したがる傾向がある気がする。
最初に第7話を見てみる。Aパートの頭だが、部室の手前から奥に(カットを割りながら)カメラが徐々に近づいていき、瓜生くんと紗凪のやりとりを挟んで、カメラが後退しつつ1ショットの間に愛理・アンジェ・桜乃がポンポンポンと顔を出す。こう聞くと「そういうものなのか」って感じだと思うけど、実際に映像を見てみると、これは結構ビックリする。
愛理・アンジェ・桜乃が口々に瓜生くんを褒め称える……というか、ちょっと意地の張り合いをしているような場面で、縦の配置にヒロインの力関係が反映されているのである。「縦の配置」は第7話全体を通して意識されていると思う。例えば、Bパート序盤でみう先輩を筆頭にヒロインズがおせっかいを焼いて部室からゾロゾロと出てくる場面は、「奥行き」を時間的に捉えれば「縦の配置」の演出の亜種と見ることができるだろう。噂の根元を辿る段では出てきた順序と逆に聞きこみをして行くわけで、ちょうどAパート序盤の短いシーケンスが反復されていると言える。ちょっと深読みすると、「本気なほど」あの二人を茶化したくなる、ということかもしれない。
そういう観点で第5話、伊能樹さんのコンテ担当回を見てみる。この回は、Aパート中盤・Aパート後半とラストを見比べてもらえると分かりやすいと思う。具体的にどの場面かというと、最初の場面は瓜生くんと愛理が廊下でイチャイチャしているのを後ろからアンジェが見ている場面、二番目の場面は教室で二人がイチャイチャしているのを後ろでヒロイン4人が見ている場面、そして最後の場面はもちろんアンジェの「告白」の場面である。第5話は要するに、メインヒロインのポジションに居た愛理さんがいかにして転落したか、という話なのだが、大まかに「前景」と「後景」が設定されておりその入れ替わりを演じた回である。第5話と比べてみると、第7話の配置というのは第5話の「前景」「後景」が多層化したもの、と捉えることができるだろう。付け加えると、第5話の段階ではまだ「匂わす」程度でしかないが、第5話では瓜生くんのさらに「前景」にみう先輩がいて、実際には三層構造になっている(理事長室で聞き耳を立てた後、目の前をみう先輩が通り過ぎる場面など)。
ショット単位で見ても手前と奥で別々の芝居をさせる演出は『ましろ色』のNOMAD回では割と多い。第3話のAパート教室の場面なんかにも「縦の配置」の傾向が見られる。比較対照として他の話数はどうかというと、例えば第4話や第6話では円形のグループショットを結構使っている。NOMAD回ではこのタイプのグループショットは、無いわけではないが非常に限られているように思う。


第3話と第7話、ウシロシンジさんのコンテ担当回はただでさえ驚きでいっぱいだが、そんな中でも挿話中に1度だけ、腰を抜かしそうになるほど驚く瞬間がある。その瞬間というのは、作中に設定されたいくつかのレイヤーが統合される瞬間でもある。ウシロシンジさんは、挿話中で最も核心的な瞬間に、最大の打撃を用意して待ち構えている。
第3話のBパート、二人きりの教室で、帰り支度をする愛理に声を掛けるか掛けまいかと瓜生くんが思案している最中に、不意に右端のドアが開いて桜乃が入ってくる。これには腰を抜かした。このシークエンスだけ見れば、画面左奥に居る愛理へと意識を誘導されているから……というのが驚きの理由である。しかしもう少し全体を俯瞰してみると、愛理と瓜生くんの二人きりの夕暮れの教室という空間に、他のヒロインたちと一緒にいる昼間の教室での運動規則を持ち出されたからでもある。右端のドアというのは、ここまで愛理が内側から開けて出ていくか、みう先輩や桜乃が瓜生くんを訪ねて入ってくるか、であった。第3話の前半では、概して画面右から何かがやってくる…というのは昼間の空間に特有の規則である。
これを踏まえて第7話をもう一度見てみる。前述のとおり、第7話の時点では各キャラクターのなすレイヤーが完全に細分化された、言うなれば各々の「キャラが立った」状況で、物語的には転調を迎える。第6話に見られるような、ある種の均衡を保った「三角形」の構図が消失する。例えばみう先輩と紗凪と瓜生くんが3人で出かける際にも、常に直線的な構図が選択される。さらに言うと、三角形の構図は「幻影」として立ち現れるようになる。Aパートの公園、空席のブランコにココアを置いた画が印象的だったが、あの空席に瓜生くんが収まって、紗凪と瓜生くん、そしてそれを見る者の「三角形」をなすことが理想なのだ。しかしそれは実現しない。その構図が実現しようとするとき、「報われない」と確信している紗凪自身がその構図から逃げてしまう。Aパートのラストのように(「カメラ」が第3の点)。こうして「三角形」が崩れて「直線」へと置き換わる。
愛理はこの挿話中でやや特殊なポジションにいる。他のヒロインたちが二人を茶化しに走っているなか、愛理はつねに「三角形」の「第3の点」であろうとしている。Bパート、紗凪と瓜生くんが人のいない公園に居る場面は、おそらく「三角形」が形成される契機ですらない。むしろ紗凪がなけなしの勇気を振り絞るほどに、二人の関係は望まれない形を成そうとする(ちなみに第7話は瓜生くんの左手に誰が来るかが重要だったと思う)。そして直線の構図が登場したとき、不意に愛理の瞳のクロース・ショットがインサートされる。勇気を振り絞った紗凪を見届けるために、誰もいなかったはずの階段の上に愛理が現れる。
これが第7話の「不意打ち」。このクロース・ショットの前後で明確にカットの切り替えのスピードを変えている(アバンラストや3人の買い物の場面の速さに合わせたのかな?)。幸福の三角形という幻影と、直線の構図が見せる現実の間を、一瞬だけでも繋ぐためのクロース・ショットだ。


<参考>
ろくさん(id:n_euler666)がウシロシンジさんについてまとまったエントリを書かれている。
http://d.hatena.ne.jp/n_euler666/20110703/1309687650
ましろ色シンフォニー』でも第3話だけ教室の机が異様に大きい。

ましろ色シンフォニー 第1話「ましろ色の出会い」


これは凄い。音楽の付け方は『ささめきこと』のように嵌っているし、ガラっと印象を変えるBパートも『ささめきこと』のギャグパートのような心持ちで見られる。
菅沼監督は「ましろ色」というモチーフを、ともすると真逆の印象を与えかねない「入り組んだ薄暗い路地」に仮託した。限られた光源、限られた人通り。その中で、自分の前を素通りする者と、立ち止まる者。人と人との”交差”に自然と目が行くなかで、新吾と愛理の最初の”交差”が芽生える。

「二人とも、まだ迷ったままなんですから」

愛理の台詞。「迷ったまま」というのが”まっさらな”状態だとすると、人と人との”交差”・”出会い”が最初の足跡になると、そういう形で「ましろ色」というテーマが伺えるような第1話だった。


Aパートは旧市街地の絶妙な暗さが良い。新吾と桜乃の住む地区よりも一回り暗い旧市街地。その中で、街灯と数件の家から漏れる光、連なる光源が、アバンラストにある雪原に残された足跡のようだった。Bパートの昼間との対比を狙った暗さ。他のヒロインの髪の色などの印象がこの暗さで抑えられているなか、愛理の纏う赤色(スカートや傘やリボン)が相対的に際立つ。新吾と愛理の”出会い”の必然を感じさせる、赤色の印象。この赤色の使い方は『ささめきこと』のOPに似ている。


Bパートで街の印象が変わる。明るさ暗さや色の印象、というだけでなく、目の前を通りすぎて行く女生徒の大群のように、彼らを取り巻く”大きな流れ”のようなものが見えてくる。人と人との交差、新吾と愛理の間に見える”赤い糸”といった、Aパートでみせた主題は埋没する。象徴的な所で言うと、T字路でのカメラ位置が変わる。AパートではT字路で横の構図が用いられていたのに対して、BパートはT字路ではほぼ必ず縦の構図、奥行きを意識した構図が用いられる。縦の構図の多用は、OPでは草原を奥へ奥へとヒロインたちが駆け抜けていく場面に重なる。新吾と愛理、二人の関係というテーマが少しの間なりを潜めるとともに、他のヒロインたちの”色”が見えてくる。この切り替えの仕方は巧い。


第2話以降と今後の菅沼栄治監督に期待。

『うさぎドロップ』第1話


うさぎドロップ』の第1話が素晴らしかった。

まずなにより、りんの仕草一つ一つが細やかで可愛い。あやとりの作画は結構注目されていたように思うけど、それ以外も歩きや走りの仕草とか、仏壇の前でうつらうつらとしている場面とか、この辺りの芝居にグッと来てしまった。
りんの仕草が同い年くらいの麗奈と対比的に描かれていたのも印象的だった。麗奈はお爺さんの死を理解しているのかしていないのか、無邪気に家の中を走り回っていたようだったが、りんは仏壇の前で手を合わせている場面が最初の方にあって、その上で時々「子どもっぽい」仕草が垣間見える……という感じで。
第1話を通して見られる描写の類はもう一つあった。平たく言えば「お爺さんの死の暗喩」なのだけど。分かりやすいところでは終盤、風に吹かれて舞い上がる花と一緒に、てんとう虫が天に昇っていき、その様をりんがじっと見ている……という場面。そのちょっと前にも花が舞い上がる場面があるのだけど、悠然と花が舞い上がるさまはこの粛々とした雰囲気の中ではいい意味で浮いていて、目を引く。この他にも、線香の煙や煙草の煙は同様に祖父の死を思わせる描写の類だろうし(思えばあの会場は喫煙率が高かった)、こういった「上昇の指向」が直接死を匂わせる表現の他にも、白黒幕が風でたなびいている様子なんかは喪の雰囲気が強く出ている。
これらはもちろん「線香」「白黒幕」の意味するところを踏まえてのものだけど、その粛々とした趣の動きにこそ強く喪の空気を感じ取るわけで。そしてこれらに共通するのが、「自然現象」にその意味を込めている点。お爺さんの死というのがまず自然の流れの一環なわけで、遺された側はそのことを様々な感情を持ちつつも淡々と受け止めて、そのことを知ってか知らずか線香の煙は淡々と揺れる。最初に述べたりんの「能動的な動き」に対して、「喪の空気」の代表たちは「受動的な動き」をする。この点において「葬儀の空気」とりんの仕草との対比が綺麗に成立していて、素晴らしかった。
最後に。第1話はこの2つの対比が軸だったように思うけど、それを「破る」場面が2箇所あった。一つ目はお爺さんにリンドウの花を捧げるために庭に降りていく場面(白黒幕をりんが「揺らす」)。もう一つは止まってしまった柱時計を直そうとする場面。前述の「淡々とした自然の流れ」にりんが抵抗を見せているように取れて、そこが私の琴線に触れた。