人類は衰退しました 「じかんかつようじゅつ」編(7,8話)について
7話のアバン。遠目に見るシルエットが犬と人間(わたし)との間で揺れるが、犬が鳴くことで犬であるという認識が確定し、いったん認識してしまうと犬以外の何者にも見えない。この犬の鳴き声というのは「個性」であり、「じかんかつようじゅつ」編は「認識」を根拠付ける「個性」を巡るお話だ。
大雑把に言って7話が謎かけ編で8話が謎解き編だが、主観と客観ということもできる。8話は「わたし」の俯瞰的なモノローグが入ったり右下にループ回数と時刻が出たりとあからさまだが、分かりやすいだろう。もう少し映像を見ると、7話では「わたし」の辿る経路が内周的に捉えられるのに対して、第8話では「わたし」の辿る経路が外周的に捉えられる。たとえば女医さんと落ち合う広場の噴水をナメてのツーショットは第7話にはない。この噴水というのは中央から湧き上がる水がバナナを思わせて、今回の騒動の縮図のようなモチーフであり、これが映ると俯瞰的な位置に立たされるのである。ほかにも、「わたし」と女医さんの会話線を跨ぐこと、つまり「わたし」の経路の外部というカメラポジションは第7話には無かった。7話では常に「わたし」の動線の内側にカメラポジションを取っている。
主観/客観にという区分に合わせて、7話,8話で登場する「個性」の表象も、内的か外的かに分かれる。7話はまぁ犬の鳴き声くらいしか明示的なものはないが、8話では拳銃・女医さんのほくろ・アロハ・テンガロンハット・腕日時計とある(7話から登場していても、「個性」というテーマに沿って意味を帯びてくるのは8話から)。
「個性」という主題が登場してくるのは、妖精さんたちの「無個性」の反動である。『人類は衰退しました』では、妖精さんはどうやら分裂かそれに準ずる手段で増えているらしい。妖精さんのデザインが没個性的なことや、旧人類の真似をしたがることなどもその生態のせいであるように思えて、とかく彼らはオリジナリティという概念から縁遠い。彼らがクローンという発想に真っ先に行き着いたのもそのせいで、クローンを「わたし」に禁止されても結局時間というものをクローンし始める。画一的なループを繰り返し、「無個性な時空」を作り出してそこに「わたし」を誘う。
画一的、と書いたが全く同一という意味ではない。行動パターンの変化(振幅)がある一定の振れ幅に収まっているという意味である。ところが、4周目と5周目の間、カウント外の反復(以下4.5周目と呼ぶ)はその臨界値を大きく逸脱する。具体的に見ると、まぁ広場のカメラアングルから何から違うのだが、例えば広場と事務所を結ぶ道を見てみる。この道での「わたし」の行動の振れ幅は本来前後方向にしかない。後方の犬が気になるとか、行き道か帰り道かの違いとか、そんな感じの振れ幅である。しかし4.5周目だけは道を横切る。
これは妖精さんの言うところのバグ(突然変異)であるが、数ある反復と比較してこれ自体を「個性」と言えるだろう。5周目の「お茶会」でこれまでの反復が総括されて形成される「助手さん像」として、私の願望のほかにこの「個性」が反映される。それはいわば「有性生殖」のプロセスである。
「個性」とはどのようなものか。女医さんの台詞と「わたし」のモノローグからすれば、関係性(他人との違い)から規定される形質といえる。旧人類は関係性の中に生きている。「言語」が旧人類の思考形式(前回のエントリ参照)の第一の特徴であるように。妖精さんのコピー慣習の起源が分裂とすると、旧人類の「個性」という機構の起源も「有性生殖」に求めていいだろう。4.5周目の「幼いお爺さん」の「生きることを極めてーの」って台詞はその辺にかかってくると思う。そして、8話の「個性」のモチーフは同時に「男性性」という意味も帯びている(女医さんのほくろは当然違うが、あれもフェティシズムと見れば「女性性」にかかわるかもしれない)。
『人類は衰退しました』において、「異性」というものが描かれることはじつは少ない。妖精さんは有性生殖しないし、P子さんたちは表面上の性別があるにしても生殖しないし、Yは男性同士の営みにしか興味ないからである。有性生殖のような面倒な事が必要なのはYを除く旧人類だけだ。「おさとがえり」編で遭難したとき(前回のエントリ参照)のように、「動物」であることはいろいろと面倒事を呼ぶ。しかしそれでも、「動物」であることは旧人類の欠陥ではない。『人類は衰退しました』全体で見たとき、このエピソードの核心はその点にあると思う。
6周目。広場で待っているのは私たちのよく知るいつもの助手さんである。だがこの時点で、私たちの認識の未だ及ばない形質がある。7話冒頭で提示された「声」ある。ここで、外的な形質から内的な形質へと回帰する。助手さんは目で語るんです、とでもいうかのようにこれまで誤魔化されてきたが(一応それはそれで十分な「形式」なのだが)、言語が旧人類の思考形式の特徴である以上、「声」にこそ助手さんの「男性性」が封じられているはずなのだ。渾身のジョークが、少し意外なくらいの福山潤ボイスで呟かれる。助手さんの声に対する「想像の振れ幅」の終点として、この上なく相応しいように思う。