『BLAZBLUE ALTER MEMORY』について(第10話まで)

この記事は『BLAZBLUE ALTER MEMORY』というTVアニメを絶賛する内容なのだが、このアニメにある数多くの批判に応えるものではない。というか、ぶっちゃけ大体は反論の余地がなく、正直なところ全く見られていないのもしょうがないかなとすら思う。しかし私が毎週楽しみに見ているこのアニメ版が無価値であるわけがないと私は信じているので、そのことを主張するためにこの記事を書いている。アニメを見るのを途中でやめてしまった方も、意味不明さに耐えながら放送を追っている方も、お付き合いいただければ幸いである。


とはいえ、格ゲーとしてはそれなりに有名な原作ゲームであるので、そのファンがついてきていないことにはそれなりの理由があるのだろうし、その点を多少なりとも考慮に入れてアニメ版が何に着眼しているのかを考えるのは無益ではないだろう。それを論の起点にしたいと思うが、しかし原作については何も知らないので幾つか推測を交えることになる。その点はご容赦いただきたい。
まず、原作の格ゲーのストーリーモードにはノベルゲー的な性格があるようだ。しかし、物語が進むにつれて分岐が起こるシステムと比較すると、格ゲーのそれは使用キャラクターを選択するという最初の段階に重大な分岐がある。それがアニメ化に際しての困難の一つなのだろう。そういったシステムのゲームをアニメ化するに際し、まず群像劇にするというのは考えられうる手法だ。もちろん、最初から使用キャラクターを選択するように、ラグナ=ザ=ブラッドエッジの物語のみを描く手法もあるだろう。しかし、本作で採られている手法はややトリッキーである。このアニメでは、主人公をラグナに据えつつも、彼を取り巻くキャラクターたちを俯瞰的に捉えようとしているように思える。ラグナと過去を共有するジン=キサラギと妹から複製された「素体」ノエル=ヴァーミリオン、彼ら3人を中心にマコト=ナナヤとツバキ=ヤヨイ、タオカカやライチが彼らを取り巻き時に関わっていき、さらにその全体を俯瞰するような上位の階層にココノエやレイチェル、ユウキ=テルミがいて、さらにその上に神様気取りのタカマガハラが…といった風に、3人を取り巻くキャラクターたちが層をなしている。

第1話、第2話の主眼はこの階層制度を俯瞰させることであり、素体「ニュー」とともに繰り返し落下していくラグナに奇跡のように手を伸ばすノエルを固唾を呑んで見守る上層の取り巻きたちの、そのすべてを我々は眺めることになる。それは、得体のしれない衝動に突き動かされるノエルに同化するようでも、レイチェルの紅茶に起こる波紋の反射を見つめるようでもある。第1話、第2話はそのような二つの視座が混在している。

ところが本作のキャラクターたちは、所与の「階層」つまり自分の役割に甘んじるほど素直ではない。レイチェルは「傍観者」ながらやたらとラグナに関わりたがるし、第七機関所属のココノエは研究室を私物化してテルミ抹殺のための研究に邁進していて、タカマガハラに遣わされたテルミは統制機構を私物化して反逆を企てている。テルミへの復讐に燃えるラグナ、本来の役割に就けないツバキ=ヤヨイの悲哀、パートナーを失い医療に自分の役割を見出すもテルミの甘言に心を動かされてしまう女医ライチ=フェイ=リン。あるいは前線から退いたはずの獣兵衛など「前の世代」ですら、隠居生活とは程遠くラグナやジンに諫言をしては若い世代の愚痴をこぼす立派な老害ぶりを見せる。涼し気な表情を見せるヴァルケンハイン爺さんも裏では奔放な姫様にため息の一つでもついているに違いない。

よって、各々のキャラクターが自分の役割からはみ出そうとする運動が展開される。これが本作の言うところの「確率事象」の世界ということであろう。整列された階層が確率的に崩壊していく過程にあって、さんざんと諫言された「ラグナ=ザ=ブラッドエッジはユウキ=テルミに勝てない」という命題も確率的にしか成り立たない。ラグナはテルミに勝ちうる。ココノエもテルミに勝ちうる。ツバキもジンに勝ちうる。現に第6話でツバキはジンを「運悪く」一度殺した。このような下克上の可能性に下支えられて階層都市におけるバトル・ロワイアルが繰り広げられている。

確率的に成立した事象が歴史に記述されるにあたって、一つ重要なルールがある。それは格闘に立会人(歴史の証人)が要求されるということである。立会人には歴史の証人たる資格が必要で、「有資格者」というそれ自体が役割、つまり階層である(作中では「観測者」と呼ばれている)。第6話でツバキがジンを殺したという「事象」は、タカマガハラの「事象干渉」によって「無かったことにされた」。つまり観客を遮断した封印兵装内部での「暗殺」という「見なかった」ものを「なかった」ことにしたのだった。「確率事象」以前で、「観測者」たちは自明に立会人だった。「確率事象」以降でその制度は崩れたのである。


このようにまとめてみると「確率事象」の世界は本来ゲームの媒体と非常に相性によいものに見える。時間的に分岐していくシステムをアニメ版では様々なキャラクターがコミットしてゆくカオスな空間として実現した。これがアニメ化に際して被った変化の一つだが、これだけでは苦肉の策のようにも思われるかもしれない。しかし、このようにアニメ化したことによって一つ面白い現象が観測できる。第1話ではアドベンチャー的だった格闘が、階級闘争という性格を与えられることで演劇的性格を持つのである。このことは第7話の格闘に顕著に現れている。第7話はおそらくゲームの必殺技がそのまま再現されているのだが、格ゲーとアニメのアクションの差異を見る上でも格好のサンプルではないだろうか。ノエルが腕を十字に構えて銃の反動を動力にして右肩のあたりでツバキにタックルしているであろうあの「ポーズ」は、全くアニメ的な動きではないが非常に格ゲー的なアクションである(第7話のアクションの差別化は非常に見事で、もっとやるべきだと思う)。第7話ではノエルの対戦を拒む意思が「人形」としての本能(階層)に凌駕され、それまで防戦一方だったノエルは格闘人形として一気にツバキを圧倒する。この質的変化がアクションの様態の変化として発露しているのである。

第7話はアクションに演劇的性格が発露しているという意味で顕著だが、格闘にあって各キャラクターたちは一つの階層からの逸脱を試み、または一つの階層の保守を試みることで演劇的な性格を得る。またそれは、我々が観客つまり歴史の証人を存在を知っているからでもある。格闘はその結果を見届ける証人たちによって記録されることで「正史」として編纂され、できあがるのは固定された「ステージ」を順番に辿っていくような一本道のアドベンチャーだ。そうして編纂された「正史」として、あの世界には既に「六英雄の大戦」と「イカルガ内戦」などの「歴史」が存在している。

ジン=キサラギはこのような「正史」の信者だ。イカルガの殺戮の光景、シシガミとともに歩いたイカルガ民の住む階層の光景、人々の顔、そういった散在的な風景を純化して編まれた「統制機構の真相」という「正史」の先に、彼は歴史の使者として己の役割を自覚する。この宗教的体験をもって彼の階級闘争はひとまず(良いか悪いかはともかく)終わる。

このような正史を編纂する運動は逆説的に観客の視界の埒外にある「舞台袖」の存在を照射する。そこでは敗れ去っていった者たちの、歴史に記録されない屈折したドラマが、表舞台の世界と同様の広がりをもって展開されていく。

第8話では、格闘が行われている「テルミvsアラクネ」や「ラグナvsアラクネ」がかろうじて表舞台と呼べるのみで、それすらタカマガハラなどが興味を持っているかはかなり怪しい。当然ながら、アラクネが置き去りにしていった寄生動物のことなんかは「歴史の証人」たちの眼中外である。カグツチの中で忘れ去られたように佇む区画にあって、ラグナとラムダはその動物を助けようとし、その努力むなしく動物は命を枯らす。面白いのは、この行動がラグナとラムダにとって自己言及的な意味を持つということである。少年時代にテルミに「敗れ」、レイチェルに右腕とともに命を救われた経験を持つラグナにとって、他者を助けるという行動それ自体が屈辱の記憶を否応なしに呼び覚ます。今でこそ死神と呼ばれ注目を集めるラグナでも、一度はテルミに敗退し、舞台袖でレイチェルに拾われて再び立ち上がってきたのだ。彼の右腕は力の源泉であり、同時に屈辱の記憶の象徴でもある。そのコンフリクトに直面するとき、彼の右腕は疼く。

これはラグナだけの問題ではなく、むしろカグツチには一度敗退した過去を持つものばかりがいるように思える。コーヒーの主を亡くしたココノエ、ココノエに命を救われたテイガー、ラグナに敗退したミューの魂を古い素体にあてて創りだしたラムダ、ココノエのチームはそんなルーザーたちで成り立っている。中間的な立場に立つレイチェルとテルミも、あるいはタカマガハラの圧力に苦しむ日もあるのかもしれない。ジン=キサラギもテルミに「拾われた」と言えるのかもしれず、また第9話のツバキ=ヤヨイの「仕組まれた救済劇」がある。*1

ラグナとラムダの前で一つの命が枯れたことを、当事者のほかは誰も知らない。そのことを「歴史を記述する階層」でもないラグナが記憶しようという意思は、「正史」という運動への反抗であり、また階級闘争そのものでもある。オマエラが見た景色だけが歴史じゃない。この反逆の姿勢を描くことが、アニメ版の主題の一つである。
歴史の表と裏という対立構造を通じて、ラグナとジンの(「青の力」と「秩序の力」の)対立構造もこれで概観できたと思うが、一方でラグナとジンの過去の記憶という散在的描写がある。これはジンにとっては未整理のまま残された風景であり、ラグナにとっては自身によって記述されるべき歴史の原型である。お互いがこの課題を乗り越えることが、一応はラグナを主人公に据えたこの物語の落とし所としては妥当なのだろう。


最後に、残り2話で語られるべき内容に触れておく。本作で目を引くのは、ジンを除いては各々のキャラクターの階級闘争がどれ一つとして完遂していないことである。第10話にあってなお、それぞれの「シナリオ」が未だ過程にある。まるで尖塔を登ってゆくように、無秩序に蠢いている各々の思惑は別々の道を辿りながら「ラグナ=ザ=ブラッドエッジvsユウキ=テルミ」という最終局面へと収斂していく。ここに至って、第1話の「確率事象」以前の構図が意味を変えて再び出現しているようなのだ。この決闘の果てに「確率事象」は終りを迎え、ひとつの歴史としての完成を迎える。その兆しが第10話にあらわれている。

*1:これはジンの宗教的体験とはかなり性格が違って、彼女に階層を押し付ける悲劇である。ノエルの「人形としての覚醒」もこれと同型。テルミの計画の主なメソッドはこのように舞台袖での陰謀を通じて歴史を操作しようとすることだろう。本文中で触れられなかったテルミやノエルのドラマを人知れず拾っておくべく脚注に記す。