『アスタロッテのおもちゃ!』について ― クローバーと父性


アスタロッテ、3話くらいから急にハマりだしました……。ロッテと明日葉を毎週ニヤニヤと眺めるのがもう至福で至福で。

アスタロッテのおもちゃ!』は相当に奇抜な設定を持っていて、主人公は23歳にして10歳児の父だったり堀江由衣さんのキャラは自分の乳を絞ったりするんだけど、現在のところはごくごく普通の親と子の物語。しかし再びファンタジーな経緯によって、直哉とロッテの間の恋愛要素がある。おそらくここに特徴があって、「親」の役割にあたる人物を「男」として見れるか?というのが『アスタロッテ』の核だと思う。ロッテは「母親」の「女」としての側面を目撃したことをトラウマに抱えているのだが、直哉を男として認められるかという問題は、裏返せばあの日の母親の振る舞いを認められるか、ということでもある。
この前原作を既刊全部読んだのだけど、その点原作は普通のラブコメになっててちょっと物足りない感じだった。というよりも、例えば第4話はアニメオリジナルのEP(完全にオリジナル…とは言い切れないけど)であるように、「親子」というテーマはアニメ版で特に強調されているのではないかと思えてくる。原作で月給50万だったところを明日葉が10万円給料を釣り上げたが、そのぶんの追加の仕事として、直哉はロッテの「親」であることを要求されているような気がする。


『アスタロッテ』ではトランプの柄の意匠が多く見られる。ロッテのしっぽはスペード、腹部にハートの切れ込みがあって、部屋はクローバーの模様で、女王様の住む宮殿はダイヤの模様……といった具合に。もちろんキャラクターデザインにかかわる部分は原作からあるのだけど、部屋や建物の模様などはアニメ版で設定が起こされたものだと思う。R字の建物も原作では見かけなかった。興味深いのは、原作には「クローバー」の模様が全然登場しないこと。世界樹の葉はアニメ版だと三つ葉だけど原作ではそうではないし、その葉を模した明日葉の髪飾りも同様だ。オープニングテーマの曲名にもなっている「クローバー」のモチーフはアニメ版から登場したものということになる。
このことついてひとつの解釈を。「クローバー」の象るものはおそらく「父性」なのだ。より正確には、「父親」「母親」「娘」の3人の関係だ。ロッテの母のメルチェリーダはしっぽがスペードの形で胸元と腹部にそれぞれダイヤとスペードの切れ込みがある服を着ているのだけど、クローバーだけが無い。その欠けたクローバーを求めるかのようにロッテの部屋はクローバーの模様で埋め尽くされている。欠けた「父親」の穴を埋めるのが、そして新たな「3人」の関係をロッテと生み出すことが、直哉に求められる役割なのだ。


明日葉の髪飾りも「3人」の関係を(それを贈った「母親」の存在を)示唆するものと取れる。もうだいぶ原作から外れているので「原作通り進めば…」とかいう前置きは付けられないが、明日葉の出生にまつわるお話があと1,2話で一区切りついて、直哉とロッテの「恋愛」の方に話題がシフトしてくんじゃないかと予想している。アニメ版がその辺りにどう決着をつけるのか、楽しみなところです。

『あのはな』と『シムーン』と『放浪息子』の話 ― 岡田麿里さんの性描写について


新年入ってから立てこんでて久々の更新となりました。

ダ・ヴィンチ 2011年 03月号 [雑誌]

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あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』のノベライズが掲載されている、今日発売の『ダ・ヴィンチ 3月号』。もう読まれましたでしょうか。冒頭からくぱぁくぱぁと連呼し(この部分は公式サイトで無料公開されていますが)、「あなるちゃん」登場の場面に戦慄します。ヒロイン登場の場面で、まさかこう、こんな文を書いてしまうのか!と。こりゃ話題沸騰だな……と思いきや某スレを見るとドン引きされててちょっと残念。気になる方はぜひ買って読んで。
最近は一段と吹っ切れた方向に舵を切っている感のある岡田麿里さんの性表現ですが、その性表現もやはり『シムーン』に見出すことができまして。岡田さん初登板の第12話「姉と妹」は、『シムーン』の中でも特に性的な題材を扱った話数でした。
EMOTION the Best Simoun(シムーン) DVD-BOX

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アルティとカイム、過去に性的な関係を持ったことのある姉妹は、そのことが原因で仲違いをしている。アルティが一方的にカイムに迫った……とカイムは言うが、当時二人の気持ちがどのように在ったかは知る由もない。そのことに気付いたカイムはアルティと仲直りをする……わけにもいかず、アルティが肝心な箇所を履き違えたまま事に及んだという事実はあるわけで。だからアルティは梯子から足を滑らせて落下するカイムを受け止められなかった。
シムーンに乗る際のキスで、カイムはアルティの唇をかんで傷を与えている。カイムは偵察任務から帰ってきた後、腕の傷を舐めて、その時の血の味を思い起こし、「同じ味だ」と呟く。アルティと同じ血が流れていることをどこまでも呪う痛烈な一言。
私はこの「同じ味だ」の一言に岡田麿里イズムを感じてしまうのです。傷の痛みを胸の痛みになぞらえるでもなく、「味」と表現してしまう。このときに私は、血の味が口の中に湧き上がるかのような感覚をもってカイムの感情を追体験するのです。精神的な言葉ではなく生理的な言葉を以て語る。岡田さんは性にまつわる題材にあたって、こういった「生々しい」描写が非常に上手い。
さて、私が今期一番ハマっているアニメは『放浪息子』です。この前原作をイッキ読みしました。岡田麿里さんのファンとして岡田イズムを感じたのは次の一言。

「女の子みたい。ボクは女の子みたい。だから臭くないし、だから…」

今度は匂いです。『true tears』第1話の初稿に真一郎が自慰をする場面があった、という有名な逸話がありますが、『放浪息子』では二鳥修一くんが夢精をしてしまった…というのがまず第1話の衝撃でした。(修一くんが夢精をする場面は、シチュエーションは違いますが原作にもあります。)それを受けて第2話で、この一言ですよ。
自分は女の子の服を着たいのか、女の子になりたいのか、「男の子として女の子の高槻さんが好きなのか、それとも女の子になって、女の子として高槻さんに愛されたいのか」(第4話・千葉さんの台詞)、それはまだ修一くんには難しい問いです。分かるのは、自分の感情の在り処ではなく、生理的な感覚だけ。それを「男の匂い」―精液の匂いであったり、汗の匂いであったり―に仮託して我々の生理感覚へと訴えてくる、この一言がほんとうに素晴らしい。
水彩画風の画面であったり、切り返しを巧みに使った演出であったり、音響の設計であったり、そして修一くんの声であったり……と素晴らしい箇所は無限にあります。女の子になりたい男の子、男の子になりたい女の子……ってこれ『シムーン』じゃねぇのというのが最初に思ったことでしたが、第3話の声変わりとブラ線の話を見るに、気持ちに決着を着けられないまま訪れる性的な変化、という点はやはり共通している、と思いました。もちろん他は何から何まで違うけども、まさにドンピシャの岡田麿里起用だなぁというのは第4話まで見た今でこそ実感しているところです。

『H2O √after and another Complete Story Edition』プレイメモ&アニメ版との比較

『H2O』の原作ゲーム、ファンディスクの『√after and another』と合体しているバージョンを、正月を利用して一気にやりました。


・最初に率直な感想を述べると、アニメ版が好きすぎるせいか、このゲームはあまり楽しめなかった。この子たちはなんでこうもやすやすと他人の心を盗み見てしまうんだと。アニメ版最終話で独白されたはやみのあの日記を盗み聞きして、それが結果的に二人を結びつける鍵になるとか、そんなコミュニケーションの在り方に私は耐えられない。ほたるルートでも、はやみのアフターの1本目でもそうだけど、他人の本音を盗み見ることが物語を決定的に動かしているということが、このゲームの嫌いなところである。
・このゲームは大きく、沢衣村での幼少時代と、各ルートの後半・大人になってから再び沢衣村に戻ってくるくだり及びアフターシナリオの2つに分けられて、とりわけ後者は『FOOTPRINTS』の詩になぞらえて「自分の人生を振り返る」ためのシナリオであるといえる。ほたるが自分の罪と向き合うには、琢磨が母の心を知るには、当時の年齢では幼すぎるのだ。それが『H2O』の根幹たるテーマで、当然ながらアニメ版にも継承されているテーマであるが、しかし子供だから仕方ないよねといって心を盗視する罪へのエクスキューズにしてはいけない。
・そのくせ幼い割に「私がはやみちゃんをいじめなければならない理由」を分析的に喋りだす辺りにも苛立っていたが、アフターシナリオ等で、それが本音とも限らないのよ、という形に回収されていったことで納得がいった。ゆいルートで語られる、ゆいがはやみをいじめる理由なんて、自分でも良く分からない心の動きを幼いなりに分析した結果でしか無いのだ。はやみアフターの1本目にあるように、はやみが好きだからいじめていたかもしれないのだ。
・はまじ・雪路ルートには感動した。このシナリオで、雪路の「母親」として生きることを決めたはまじが「死に」、今度は一人の「女性」として生まれ変わる。アニメ版のあの最終話に直結しているのは本編ではなくはまじ・雪路ルート。
・はやみアフターの3本目『思い出の果てに』、子供時代にケリを付けるために直接的にはやみを「子供」にしてしまうセンスの悪さは頂けないものの、しかしこのシナリオだけは全力で擁護したい。あれほどはやみを苦しめた差別も、しかし時とともに風化しつつあり、風化してしまう前に、ほたるは過去の罪と向き合わなければならない。忌まわしい因習も含めて、この滅びつつある村自体が年老いた親なのだ。


以下は、アニメ版との比較
・ゲーム版の『FOOTPRINTS』の詩は、琢磨がはやみを背負って歩くくだりに象徴されるように、恋人に捧げる詩である。しかしアフターシナリオで(とりわけ『思い出の果てに』で)、自分の人生を振り返って、「自分に寄り添って歩いて来た者、見守る者」の存在に気づく、という意味でもこの詩が登場する。アニメ版での位置づけは後者のほうに近いが、常に子供の視点しか持ち合わせていないのがアニメ版であり、この詩は登場人物の口から語られることはなく象徴的な形で語られることになる。
・はやみの差別の経緯はゲーム版とアニメ版で大きく異なる。少し語弊があるが、アニメ版は村八分でゲーム版は部落差別に近い、と言えば分かりやすいと思う。アニメ版のはやみちゃんが一人で暮らしていると思しきあの山間部にゲーム版では集落があって、その一帯が差別を受けている。とはいえゲーム版では、ゆいルートに語られているような少し複雑な構造がある。重要な違いは、ゲーム版では古い因習に根ざした差別であるのに対して、アニメ版では近景の事件に起因しているという点。
近景の事件に付随する感情はそうやすやすと消すことはできない、だからアニメ版のゆいとはやみは心から和解することはなく村長は逮捕されるのであり、また古い因習はそれに付随する感情を追い越して風化してゆく、という儚さを実現しているのがゲーム版であるといえる。
・アニメ版では琢磨が1話で開眼してしまうが、ゲーム版ではそれがない。琢磨に欠落していたのは母性であった、というのはおそらく共通なのだが、それを他人に求めてしまうのがアニメ版であり、その欠落感を二人で共有することで仲が進展していくがゲーム版である。
・アニメ版の音羽(ひなた)は人を生き返らせるくらい絶大な力を有する精霊だが、ゲーム版は何の力もなくそう名乗っているだけの孤独な幽霊である。「時の音の精霊」の物語だって普通に出版されているマンガであり、ひなたはそのキャラクター・音羽に自己投影しているにすぎない。ただし「ほたるの描いた絵本」というのは、ほたるアフターの2本目『レインボー』から着想を得ていると思われる。「絵本」とは親から子供に読み聞かせるものであり、ほたるが琢磨に絵本を読み聞かせることで母性が立ち現れてくるのが『レインボー』の概要である。ではアニメ版「ほたるの絵本」の読み手は誰なのかというと、それがたぶん音羽自身なのだ。
・風車の話にあたって

風が吹くと 風車が回って 夕日が海に沈んで アジサイの花になる

というはやみの詠む詩がある。コレはもうなんでアニメ版で削ったのって問い詰めたくなるくらい良い詩だと思うのだけど。コレは、目の見えない琢磨に風車の回る様子をはやみが詩的に表現して聞かせたものだが、アジサイの花=二人の子ども、ということで恋の詩でもある。というわけであの風車に恋愛的な感情が籠っていたわけだが、アニメ版ではほたるとはやみの絆の象徴としても出てきているとおり、友情の意味合いを持つに留まっている。

新年の挨拶

あけましておめでとうございます。今年も当ブログをよろしくお願いします。


今年は岡田麿里イヤーです。
GOSICK) http://www.gosick.tv/
フラクタル) http://www.fractale-anime.com/
放浪息子) http://www.houroumusuko.jp/
花咲くいろは) http://www.hanasakuiroha.jp/
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。) http://www.anohana.jp/


発表されているだけで、上半期だけで5つ、うちオリジナルが3つ。
個人的な一押しは長井龍雪監督のオリジナル『あのはな』ということで。やっぱり『ゼノグラシア』が好きだから、長井監督にはオリジナルを作って欲しいなぁと思うのですよ。
どれもやばいくらい期待株なので今年は節制に励んでソフトを買う金を準備しておかないと……。

ヨスガノソラ 第12話「ハルカナソラヘ」


穹編のラストは前三編と異なり、異端の道を選んだがゆえの後味の悪さを湛えている。前三編と比較して「これでよかったのか――」と問いかけてくると同時に、唯一、前三編の間「ハズレ」を引き続けてきた穹の孤独だけが、救われる形になっている。


奈緒編での、例のバス停の回想シーンに対応する「いつの間にか埋まっている距離」という主題に対立する形で、今回のAパートは「埋められなかった距離」という主題が、ゴミ捨て場のシーン、音楽室のシーンに見て取れる。
前回の廊下のシーンを照応する形の、梢と悠の対峙のシーン。均衡の取れた対峙の構図に、梢の考える「適切な距離感」が見て取れる。この「適切な距離感」から梢は抜け出すこともなく、結局、第一話の「事故」以来、距離を埋めることができなかった。
奈緒との音楽室のシーンは再びあの回想シーンを照応する形で纏まっている。悠の穹に対する想いを聞いた奈緒の振り向き(例の回想シーンとは向きが逆転)、しかし悠の「でも妹だから!」の一言で押しとどめられる(振り向いても、依然として詰まっていないふたりの距離)。その後、頭を垂れている悠に向かって、奈緒が歩いていき(歩いて行くモーションが描写される)、しかし悠は頭を上げること無く、奈緒は「うまくいかないよね、ホント」と一言言い残して去ってゆく。「すれ違う奈緒と悠」という画は、Bパート、失踪した穹を探すシークエンスにある、星空の下・向きを違える二人、という形で反復される。
Bパート、悠と穹が旅だった後のシーケンスにあるような「恋に破れた二人」の反応の違いが、年齢差や性格以前に、全体の「分岐構造」に根ざしているのが面白い。「自分の番」があった奈緒に対して、全12話を通じて、ついに行動を起こすことのなかった、梢の失意は深い。


Bパートでは双子のアップショットの切り返しが多用されているのが印象的。食卓のシーン、布団のシーン、神社の湖・「向こう岸」にたどり着いた後、ラスト・電車内のシーンの4度に亘って同様の切り返しが使われている(この連鎖はAパート、穹を押し倒した際のショットから始まっているとも言える)。これだけアップの切り返しが多用されるのは『ヨスガ』ではすごく珍しいと思う。前者二つは表情の差異のためのもので、後者二つは同一の表情を強調するためのもの。とりわけ湖のシーンが印象的で、クロースショットの切り返しに見られるように、二人の着ている服やら、髪の長さやらの差異を取り払ってしまえば、二人は同じ顔なのだ。ここの切り返しが、ロマンチックなシーンに見せかけて強烈な異物感がある。
兄と妹という表面上の設定ではなく、同じ顔の二人が愛し合うという、視覚に訴えてくるという点で『ヨスガノソラ』は一段と業が深い。ここに到るまで、同一の顔という要素が過度に強調されることはなかったが、ここの切り返しに、(わざと「似せて」描いたのか)その業の深さが現れていた。


総評として、一葉編・奈緒編に若干の違和感を感じつつも、全体として非常に面白かった。凝った構成をとっているものの、最後の最後に「分岐」が効いてくるまで、「あるべき恋愛の姿」を描き続けてきたストイックな姿勢に敬意を表する。最終話、すごく面白かったです。

話数単位で選ぶ、2010年TVアニメ10選

ちょっと早いけど、さらに忙しくなる前に、個人的に今年を振り返る機会を作ろうと思いまして。


とある科学の超電磁砲 第14話「特別講習」(脚本:浅川美也/絵コンテ:矢島サコ美/演出:川畑喬)
戦う司書 第19話「阿呆と虚空と踊る人形」(脚本:岡田麿里/絵コンテ・演出:加藤敏幸)
ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第10話「旅立チ・初雪ノ頃」(脚本:吉野弘幸/絵コンテ:鎌倉由実/演出:藤本ジ朗)
迷い猫オーバーラン! 第10話「迷い猫、持ってった」(監督・脚本・絵コンテ:佐藤卓哉/演出:菊池聡延)
ストライクウィッチーズ2 第6話「空より高く」(脚本・絵コンテ・演出:佐伯昭志
けいおん!! 第22話「受験!」(脚本:花田十輝/絵コンテ・演出:高雄統子
世紀末オカルト学院 最終話「マヤの文明/ MAYA's BUNMEI」(脚本:水上清資/絵コンテ・演出:伊藤智彦
ヨスガノソラ 第1話「ハルカナキオク」(脚本:荒川稔久/絵コンテ:高橋丈夫/演出:さんぺい聖)
ぬらりひょんの孫 第17話「夏実と千羽様」(脚本:ハラダサヤカ/絵コンテ:西村純二/演出:宇井良和)
神のみぞ知るセカイ 第4話「今そこにある聖戦」(脚本:高橋龍也/絵コンテ:高柳滋仁/演出:斉藤啓也)(12/31追記)


番外
閃光のナイトレイド特別編 「阿片窟の悪魔」(脚本:大西信介 阿谷映一/絵コンテ・弥佐吉/演出:福多潤)(TV未放送)


ルール
・2010年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・放送順(最速に準拠)に掲載。順位は付けない。


あと1週間あるので1つ枠を空けておきました。後ほど埋めます。12/31 追記しました
以下、あまりまとまった感想を書いてないアニメを中心に、いくつかピックアップしてコメント。時間があれば書き足すかも。


とある科学の超電磁砲 第14話
超電磁砲』前半のレベルアッパー事件から後半への転換点として、第14話は、佐天涙子がその事件にかかる「罪の意識」とその裏返しの「劣等感」から解き放たれる話数とされている。
14話で問題になっているのは、美琴たちと一緒でない、「同類ばかり」の空間の中で、佐天涙子は自分の立ち位置を見出すか、ということ。14話では校舎を包み込む倦怠感の描写が冴え渡っている。「不良少女」も佐天涙子も、あの校舎に居る誰しもがかの事件への罪の意識と、こじらせた劣等感を抱えている。「同類たち」は佐天涙子の鏡であると言えて、特有のけだるい空気感の中で、佐天さんの意識は、それらと同化していると同時に浮き出てもいる。
園都市の課す「意味」の無いかもしれない課題は、美琴たちと4人で過ごす「現実」とともにある。佐天さんは「同類たち」と過ごす中でそのことを受け入れ、「現実」に回帰していく。重福さんからの手紙(彼女は「鏡」ではなく、自己の意識があり佐天涙子との関わりを持つ、人間であった。)、持久走の戦友との「感性の共有」、こういった対象があまりにも現実的であるために、佐天さんは「意識の沼」から美琴たちの元へと引き戻される。仕事を終えた「モノ」たちの、夢の残滓のようなショットの数々が印象的だった。


ソ・ラ・ノ・ヲ・ト 第10話

誰かが、世界はもう終わりだと言っていました。
でも、私たちは楽しく暮らしています。(後略)

というキャッチコピーを全面的に引き受けているのは、実はこの挿話なのではないか。リオの「砦の卒業」に手向けられたエピソードとして、やや重すぎるかもしれないが、彼女がこの時点で、目先の「戦争」だけでなくこの世界全体の行く末に眼を向けていた、と考えると丁度良いのかもしれない。
あの老婆は「行き止まり」のまま終着点へと来てしまったように見えるかもしれないが、かといって、「お迎え」とともに旅立っていった老婆が幸せでないとは、誰も言い切れない。同様に、この終末感たぎる世界の中でさえ、カナタたちの「日常」が幸福でありうるのだと。「幸せだった頃の記憶があるから、人は生きていける。」ならば、歴史を失い終りを待つだけの世界でどのように生きてゆくのか――という形で、第13話(以降)のテーマにも繋がってゆく。
雪の見せる終末の景色と、過去に引き籠る老婆の纏う暖色(=まぼろし)の対比が冴えていた。


けいおん!! 第22話
花田十輝さんのいちファンとしては、今年は『海月姫』よりもむしろ『けいおん!!』が良かった。『けいおん!!』に内面があるとかないとか、アニメの登場人物に内面が宿るか否かという議論があったが、個人的には、キャラクターの内面にはどれだけ作品を読み込んでも推し量れない部分がある、と以前から思っている。『H2O』最終話ではキャラクターの側から距離を置かれ、『戦う司書』第4話ではキャラクターの感情の動きが我々の自己投影を凌駕する。『けいおん!!』第22話の、雪を見つめる梓と三年生たちからなる不可侵な空間にもまた、キャラクターの中で自己完結する情緒がある。
第26話の「寂しくなっちゃうんだなぁ…」の一言に込められた感傷にも舌を巻く。『けいおん!!』の花田さんが脚本を担当された回はもれなく好き。


閃光のナイトレイド特別編 阿片窟の悪魔
ナイトレイド14話を通して、物語の中核に居ながらも傍観者に徹するしか無かった雪菜。本編を離れて彼女の見る遠景が、この特別編であると言える。
『阿片窟』の面白いところは、白昼夢と現実世界の混在、という主観に依った表現方法が採られながらも、当時の社会情勢が参照されながら、現実的な内容が客観視点から語られるという点。夢とも現実ともつかない櫻井孝宏さんの狂気の笑い声が、どこまでもリアルなのだ。しかし雪菜はそのリアルへと介入していくことはできず、本編と同様、彼女は俯瞰するしかない。雪菜は夢でも見ていたかのように、棗に連れられて現実に戻ってゆく。しかし、彼女の見た遠景は紛れもない現実でもある。

分かる気がします。悪魔に魂を売りたいと思う気持ちが。

という棗のセリフ。本編であまり大きく扱われることはなかったが、棗はあの4人の中で唯一「貧民」の立ち位置に居る。彼にとってのみ、あの笑い声は他人事ではなかった。
第5話をベストテンに入れても良かったが、OVAの『阿片窟』があまりにも良かったので番外で扱うことにした。


(12/31 追記)

迷い猫オーバーラン! 第10話
各話監督交代制という斬新な企画で話題になった本作は、結果的にギャグ/コメディに最も個性が出ていたように思え、私を最も笑わせてくれた3人を選出すると大地丙太郎さん、小野学さん、佐藤卓哉さんになるわけだが、その中でも「ストレイ・キャッツ」演じるコメディの裏に彼女たちの孤独感を印象せしめた佐藤卓哉さんが頭一つ抜きん出ている、というのが個人的な感想である。
ストレイ・キャッツ」に新しくやってきた迷い猫と3人の、孤独な者どうしの連帯感がコメディに派生し、抑制の効いたBGMの挟み方に対し、その間隙を埋めるためにコメディを畳み掛ける姿が印象される。しかし、その連帯感は意外ながら最もありうる形で裏切られ、「当たり前に」両親の居ない3人の孤独感はここでいっそう強く印象づけられる。
コメディの面白さを殺さない形で孤独の匂う空気感を創り上げたセンスに脱帽。


神のみぞ知るセカイ 第4話
『神のみ』本編における、ギャルゲーの経験を以てリアルの女の子を「攻略」するという趣旨の、そもそもの動機づけとして、桂馬がギャルゲーをプレイするモチベーションに踏み込んだのが第4話だった。アバンに現れる、プログラムのヒロインが本編の他4人のヒロインたちと「同格」だと言わんばかりの、圧倒的な存在感の印象を引き、Bパート、プログラムされた内容以上を喋らないヒロインにもかかわらず、固まった表情の裏に彼女の孤独感をリアルとして感じ取ることができるのだ。
「悪いヒロインなんて居ない。悪いゲームがあるだけだ。」リアルなんて「クソゲー」だと散々呟く桂馬は、一方で、その「クソゲー」を生きる女の子たちの孤独が救われねばならない、とも考えている。『神のみ』第一期目の主な焦点はまさにそこであった。では、ゲームの「プレイ」を終えて、忌み嫌う”現実世界”へと回帰していく桂馬自身の孤独感は、どのように救われるのか。図書館編および最終話で匂わされたそのテーマが、第二期目の焦点になると思われる。
第二期目への期待も込めて、の選出。

ヨスガノソラ 第11話「ソラメクフタリ」

奈緒と悠のデート、家に一人で居残る穹のクロスカッティングが非常に良い。穹の自慰を反芻して顔を曇らせる悠の、その行動の暴力性が浮き彫りになり、さらに現在時制の穹の行動がクロスされている。前回、悠が奈緒と手を繋がないという話をしたが、11話では「奈緒と手を繋ぐこと」に暴力的な意味が見いだせる。「奈緒とともに前へ進もう」と心のなかで呟いていることの、その意味がいかに暴力的なことか、客観視点からまざまざと見せつけられた。「ねぇ、私のこと、好き?」と問いかけてくる奈緒の涙が切実だ。
さらにそれと、穹の病的な行動(奈緒の匂いを消すために悠の服をすべて洗濯する)が並行している。(Aパート冒頭、悠のメモを前にして、穹の指が震えている描写も細やかで良い)。悠と穹がそれぞれ一人の時に見せる行動を基に、悠が帰宅してからは再び「兄として」「家族なんだから」という茶番に満ちた会話が広げられる。


悠と穹は共通して、対外的な関係を取り繕い、自分ひとりの世界を持っている、ということが第10話で描かれていた。悠が穹の世界に触れる、そのショックを引きずったまま、しかしなおも茶番劇は続いていたが、Bパートでその均衡が自然な形で崩れることになる。悠はなおも嘘を重ね、対外的な関係を気にするが、穹はもはや(奈緒へのあてつけ、という意味合いもあるが)「人の視線」を気にすることはなくなる。悠が他の女の子とくっついている脇で、11話に到るまで、穹は待たされ続けていたのだから、それも当然か。
悠と穹、二人の仲の異変に踏み込んでいくのが梢というのも面白い。ついに「自分の番が回ってこなかった」梢が、である。
次週、梢と奈緒にセックスを見られて、悠は顔面蒼白だろうが、果たして穹は取り乱すだろうか。そうではなく、勝ち誇ったような笑みを浮かべるんじゃないだろうか、と個人的には思っている。


Bパート、悠と穹の最初のセックスの後、穹の誘惑に従って二人の仲がエスカレートする。悠は自分と穹との関係について悩むものの、それが解消されることもなく、穹に引きずられて歯止めが利かなくなってゆく。そういった危うさと緊張感が素晴らしかった。