ヨスガノソラ 第10話 「トリノソラネハ」


長かった…。ようやく、悠の内面が描かれる段になったか。すごく面白いよ。
ヒロインの抱えている問題や、ヒロインとの過去を基点としていた前三篇と異なり、穹編は悠の視点・悠の願望が基点となる。悠の見る夢は回想に留まらず、夢の中の穹は大きくなって距離を詰めキスをしてくる。悠は邪念を振り払うかのように奈緒とくっつこうとする。しかし穹は不敵に自分を誘惑してくる。
Aパートでは、穹が悠を見下ろす構図(幾度か反復される)に象徴されるように、悠が気持ちを落ち着け奈緒との未来へと進もうとするのを、穹がさらに悠の心をかき乱す、という調子で進んでいく。穹が無防備にゼロ距離へと詰めてくるのに対して、穹の嘘とも本気とも取れない態度に対しては(悠の視点からの)心理的な距離が大きく空いている。それに対しBパートは、すふま越しの会話で、穹の本心の表情がこぼれ落ちる場面に明らかなように、物理的な距離が離れているからこそ、穹の心理が垣間見えてくる、という対比がある。


奈緒との「手」のやりとりに見られる2人の距離感も面白い。アバンは第8話のAパートなわけだが、第8話のアバン、固く手を繋いで歩いている2人のショットが削られている分、奈緒が「手を離す」動作が強調されることになる。そしてこれ以降、デパートの手のすれ違いに見られるように、2人が再び手を繋ぐことはない。
奈緒とのデートから帰宅した悠は、部屋で一人泣いている穹を見つける。泣いている穹を抱きしめる悠、という、ここでまたAパートのゼロ距離の主題へと戻るわけだが、Aパートの嘘の応酬の帰結として、穹の「泣き」が、果たして本心の表情だったかは知り得ない。二人はともに夢をみるわけだが、悠の夢は本心が現れたものだったのに対して、穹の言う夢は「語り」によるものであり、自覚している不安だ。この非対称性が面白い。
そして、10話の着地点として用意されている覗き見の場面が素晴らしい。かつて自分と奈緒とのセックスを覗き見していた穹の気持ちを、悠は身を以て知ることになる。

ハルがそっちを取るって言うなら諦める

ふすま越しの会話の際に穹が言ったセリフ。
穹はずっとこういった態度をとっていたわけだが、このセリフを第10話まで取っておくのが格好いい。10話の嘘の応酬は印象的だったが(というかこの嘘の応酬を指してこのサブタイ「鳥の空音」なのかなと思ったけど)、第5話などに嘘をつく場面があるように、穹は悠の嘘を知りつつも、反抗しようとはしなかった。悠は今まで穹のそういった態度を察することもなく、穹の本心を思い量ろうとはしなかった。その罪を、今回の覗き見の場面で知ることになる。

ヨスガノソラ 第9話「ハルカナオモイ」


うーん、瑛編がものすごく良かったのに比べると、正直なところ、奈緒編はそれ単独ではちょっと落ちるか。
1話→7話→8話→9話と見ていったときに、あの第1話のキスが、穹は悠のことを「家族として」必要としていた、という風にすり替えられてしまうと思うと、さすがに腑に落ちない。穹編があるから総体としてはあのキスが核になっているのかもしれないが、奈緒編においても、穹が二人のセックスに過剰に嫌悪を示したのはあのキスがあったからじゃないのか。その辺りの期待を最期の最期で裏切ってしまう奈緒ルートは、穹の言うとおり悠の見た夢だとでも思わない限りは、どうしても納得しがたい。
しかしながら、穹が今回奈緒と悠を阻む「障壁」に徹することになった都合は理解できる。一葉編、瑛編と、二人の仲を直接的に阻むものは何一つ無かったのに対して、今回はじめて、二人が恋愛することそれ自体が罪、という側面が登場している。悠はその罪を自覚することはないが、Aパート終盤、穹の失踪を奈緒に話す際に見せるあの表情に、「後ろめたさ」のようなものが滲んでいるのである。悠は自分の行動の何が罪なのかまでは理解していないが、穹の失踪が自分のせいであることは感じ取っている。
揉めに揉めた割に最後はあっさりと解決してしまうのも良い。雷がバス停に直撃するという大仰な事件の割には、冷静に見てみるとちょっと小屋が燃えているだけだし、ちょっと中に入って忘れ物を取ってくることくらい、造作も無いのかもしれない。
悠の危機、そして穹の危機と2度に渡って兄妹の危機を救った奈緒とは対照的に、悠は今回あまりに無力に見えたが、一葉編でも瑛編でも悠はとくになにかを為したわけでもなく、無力であった。前の二編で悠はとくに自分の無力さを自覚する必要はなかったが、今回その事実を突きつけられることになった。しかるに、穹編ではさらに大きな「障壁」が待ち受けていることになり、奈緒編で悠が感じ取った「罪」はもっと明示的な形で突きつけられるはずである。無力な悠はその「障壁」に立ち向かえるのか、と心配になるが、奈緒の機転があっさりとした解決を導いたように、兄妹の恋愛につきまとう背徳感(と、両親の問題も効いてくると思うのだが)もそういった機転で乗り越えられるものなのかもしれない。そういった予兆を奈緒編で漂わせていた、という点においては、奈緒編のバランスは素晴らしかった。


佳境、失踪した穹を雨の中探し回り、ちょうどCパートエンディングの場面を実現しているあのバス停へと辿り着く、という流れはなかなか良い。しかし、緊張感を分断するような回想の挟み方はあまり気持ちのいいものではないし、あの回想の反復自体かなりしつこい。実際のところは、あの佳境が気持ちのいいものになっていないという点が、私が奈緒編を喜べない一番の理由。
見ての通り(?)私は瑛が好きなんだけど、悠の居ない間の(それは「適切な距離感」なんだけども)、穹の心の隙間を埋めるような存在という、奈緒編での瑛の立ち位置も面白い。例の回想を意識した構図(左からのフレームインと、直後の右に寄った構図)は頻繁に使われているわけだけど、お祭りの当日それが瑛と穹という組み合わせで使われると、ちょっとこう、感激してしまうなぁ。

ヨスガノソラ 第8話「ナオクラキソラ」


これまで無言の抵抗を示し続けていた穹が、ついにキレた。
奈緒がトボトボと家を出ていき、穹が台所に走って行って、「さぁ、悠はどっちを選ぶ?」と突きつけられる。そうそう、こういうのが観たかったのよ。カレーを捨てて鍋を投げつけるのも、これまでを見ていれば「まぁ当然だよね」という感じだし。ものすごい修羅場なのに、妙なカタルシスがある。
とはいえ、悠は依然として「流され続けているだけ」という印象が強くて、「どちらを選ぶか?」に対して葛藤することもない(まぁ、あの瞬間、台所に向かっていったところに深層心理を見出したくもなるわけだが…)。悠は「あの時の繰り返しになってしまった」と悔いるわけだが、なぜ繰り返しになってしまったのか、深く考えてくれない。その辺りを考えずに、二人の仲を穹に認めてもらおうだなんて、あまりにもむごいんじゃあないか。


穹の必死の抵抗もむなしく、依然としてイチャイチャし続ける悠と奈緒を見て、唖然とし、歯を食いしばって、ドンッと足を鳴らす。このシーンが個人的にはすごく好き。
勢い良く襖を閉めるモーションや、奈緒を追い出した後、穹の走り、奈緒を投げつけるモーションなどがあったにも拘わらず、全体としては穹の「閉鎖的な動き」という印象が強かった。とりわけ第一話、およびオープニング、メキメキと開く足の指や、軽快な足音、水没してなびく髪などの「開放的な動き」に対置されるかのように織り込まれた、Aパート冒頭、モニョモニョと動く足の指、悠・亮平・奈緒を遠目に見て立ち尽くし、水道の水を被るシーン、そして足を鳴らしたときの「ドンッ」という鈍い音。
穹の感情の昂ぶりと共に、自閉していく穹の心理が見えてくる。


締めの「あつい…」というセリフとともに、アイスの棒、扇風機の風といった、第3話と共通するガジェットが目を引いた。これほどの感情の昂ぶりの後に扇風機の風・穹の呟きを見ると、何気ない描写だった第3話よりも具体的な意味が浮かんでくる。行き場のない怒り、感情のほとぼりが「あつい…」だったのだ。悠が一葉といちゃついていたあのとき、穹はどんな気持ちでアイスを食べていたのか。並行する第3話の描写に対して遡及的に「裏の心理」が解き明かされる。
分岐構造、という一風変わったシリーズ構成は、こういった点においては功を奏しているといえる。


普通に見ていると当然ながら穹に肩入れしたくなってしまうが、「三角関係」を成立させるために織り込まれた「奈緒の表情」が非常に巧い。穹に追い出された後、「悠が来る以前の表情」=無表情に奈緒が戻る。とりわけ、家を出る際に見せる繊細な無表情、ああいうのを見てしまうと、奈緒が「嫌な女」にはもう見えない。奈緒奈緒で辛いんだよと。悠には見せない、亮平にだけ見せるツンケンした表情も良い。奈緒は、亮平には気を抜いて接することが出来るのか。
関連して奈緒のPOVの入れ方もなかなか際立っている。悠の後ろから当然のようにフレームインしてくる穹を見てしまう衝撃。奈緒の表情が挟まる2つ目の校庭のシーンはともかく、1つ目、何気ないフレームインに感情を込めることが出来るのは、さすがヨスガノソラだなぁと思った。

ヨスガノソラ 第7話 「ツミナオトメラ」


位置づけ的には第2話に当たるのだろうけど、第2話よりも展開が早い。もうキスしちゃったし。


第2話の時に、穹・一葉・瑛の「駆け寄り」に性格が現れていて面白い、という話をしたが、今回はそれと対比される形で奈緒の「走り」が登場していたのが面白かった。ケンカする両親から逃げるように家を飛び出し、辿り着いた先で悠を犯してしまい、春日野家からも逃げ出す。奈緒の「走り」には「逃避」という意味合いがこもっていた。その上で、Bパート、プールサイドで悠に手を引かれて走る奈緒の姿がある(回想と同様に俯瞰が使われている)。
奈緒の「走り」に対して、穹が携帯を見て立ち尽くしている姿は第1話の反復だ。奈緒に吸い寄せられていく悠を見て呆然と立ち尽くしてい第1話から発展して、「嫌悪」「抵抗」といった感情を(我々に対して)見せるようになっている。


奈緒が悠の前から逃げ出した過去は、このように、悠によって肯定しなおされる。第7話では奈緒の過去に抱えた後悔を、悠が肯定する・あるいは、「上書きする」という主題がある。
いま「上書きする」と言ったのは、「過去の出来事に別の視点から解釈を与える」といった意味合いなのだが、その関連でちょっと面白いシーンがあった。プールの更衣室、過去のあの出来事の話題になった際に、当時の心境を悠が開陳する。「嫌じゃなかったよ」と。このセリフが、第1話で出てきた回想の口パクに被るのだ。ちょっと、重箱の隅をつつくようなことかもしれないが、直後に穹のセリフ無しの口パクを見てしまうと、さすがに気になる。
当時あの場面で悠はどのようなことを言ったのか、逆レイプされて悠はどのような心境だったのか、実際のところは分からない。しかし時間が経ち、当時を振り返ってみるに、「嫌じゃなかった」と「思い直す」。第7話は単なる回想によって2人の過去が明らかになるのとは異なり、言葉で過去を上書きしたうえで肯定され、二人が結びついている。
対して穹の無言の口パクは第2話の反復であった。こちらは容易にその口の語る内容を埋め合わせることができる。穹は口に出して、「奈緒うざい」とは言わない。無言の抵抗。第6話まで、いつだって穹はそのような態度を示していた。


個人的には、穹が悠の前で怪我をした指を隠すところが好き。
あと気になっているのが、水没していく奈緒の姿。お風呂で文字通り物思いに沈む姿(第1話でもあった)や、プールで潜水している姿など、OPで水中に沈んでいる奈緒の姿を反復する描写が多かった。あのダンボールに隠れたのだって水没の変奏と見れるかも。水に関して、何かありそうに見えるけど…

橘秀樹監督の次回作も発表されたことだしちょっとそろそろ精霊会議に決着をつけたい―「H2O FOOTPRINTS IN THE SAND」

ヨスガノソラ』の雰囲気があまりにも『H2O』っぽくて、ヨスガを見ているうちに急激にH2Oが見たくなってしまい、つい全話見返してしまった。号泣した。ものすごく良いアニメなのに、みんな精霊会議というだけで嘲笑するのはあんまりじゃないか、みんなエヴァの(TV版の)最終話があんなでも好きになったじゃないか、というかH2Oも劇場化してもっと最終話を詳しく描いてくれ、とか常日頃から思っているわけだが、そんなことを常日頃から考えている自分こそが一番精霊会議という亡霊に取り憑かれている。
H2O、全話すごく面白いし、最終話もすごく面白い。面白いけど、最終話はスピリチュアルなテーマを滔々と語っている、という側面がある。
橘秀樹監督の次回作、『ドラゴンクライシス
http://dragoncrisis.jp/
も発表されたわけだし、ちょっとそろそろH2Oの最終話と真剣に向き合いたい。決着はつかないかもしれないが、とりあえず、現時点での自分なりの考え。


「FOOTPRINTS IN THE SAND」(詩の内容は http://www.ieji.org/archive/footprints-in-the-sand.html を参照)に込めたテーマとは、人は死んでも離ればなれになるのではない(彼岸から見守ってくれている)、というものだった。辛く苦しい時、足跡はいつもひとつだった――という問いかけに対して、神(=死者)はそれは私があなたを背負って歩いたからだ、と返す。キャラクターたちはみな(琢磨やはやみ、ほたるだけでなく、はまじやゆいまで含めて)肉親と死別した過去を持ち、死別したことに起因する「不幸」を抱えて生きている。そして、彼岸から見守っている霊、を体現するキャラクターとして、ほたるの姉であるひなたの亡霊・「時の音の精霊」音羽がいる。


琢磨に着目したときのH2Oのストーリーもこの詩に見立てられている。琢磨は母親の自殺をトラウマにして盲目になってしまったが、彼は音羽との出会いによって再び目が見えるようになる。「精霊」は新たな「母性」として琢磨を見守っていたが、第8話で退場したのち、琢磨は再び目が見えなくなる。幼児退行してしまった彼の「母親役」をはやみが務めるようになり、二人は東京に越して行って、かつて琢磨が母親と暮らしていた時と同じ環境で、生活を送ることになる。

「母親の代わり」として生き、琢磨の母親の気持ちを経験したはやみは、琢磨に向かってこう語りかける。

私ね、(母親が)あなたのことを置いていったなんて、とても思えない。そんなこと、するはずない。

聞いて。お母さんは、あなたのことを大事にしていた。何よりも大事にしていたと思う。

置いていったんじゃないんだよ。「背負って歩いているんだよ」と。
はやみの語りかけで母親の死を受け入れられた琢磨の前に、再び「精霊」の音羽が現れる。


H2Oのストーリーを包括するものとして、「FOOTPRINTS IN THE SAND」の詩とは別に、「ほたるの書いた絵本」がある。時の音の精霊・音羽というのは、この本の中に出てくる精霊の名前。音羽が琢磨たちの前に現れた時点では未完成だった絵本を、ほたるは第7話で完成させ、その絵本のとおりに音羽は憂いを残すことなく人間界を去る。そしてある種、「FOOTPRINTS IN THE SAND」に対立する形で用意されたこの絵本が、「FOOTPRINTS」の詩を上書きする形で、『H2O』の心霊的倫理観の制約を突破するものなのではないか、と。
第7話のほたるのエピソードは、「彼岸から見守っている霊」というテーマからすると典型的なように見えて、、一度死んだ「ほたる」が再誕するという、「死んだことを受け入れる」というテーマに抗っているという二面性がある。「できないと思い込んじゃダメだ」になぞらえると「死んだと思った時が本当の死」というわけだ。心霊的なテーマに対する抵抗がここに見える。


果たして、第11話までで、琢磨とはやみは恋愛関係であったと言えるであろうか。この「カップル」が崩壊するのはあまりに早かったが、もともと、第9話の「夏祭り(お盆)」や「母の形見の鈴」に表象されるように、琢磨ははやみに自分の母親を投影していた、という側面が強かったのではないか。
はやみが自分の琢磨への思いを綴った日記が感動的だった。

弘瀬琢磨様
たぶん、この気持ちをあなたに伝える機会は、きっと訪れないでしょう。
私とあなたはあまりに遠く、私はあまりに不器用で、気持ちを言葉にすることができません。
だから、ここに今思っていることを全部書きます。
(中略)
好きという言葉では曖昧すぎる。愛しているという言葉では軽すぎる。
だから、なんて書けば一番正しいのか、この気持ちを表せられるのか
わからないから、こう記しておきます。
弘瀬、世界をありがとう。

「世界をありがとう」はさっきの引用元にはないが、作中で語られた詩では、続きに「男は言った。すべてに感謝して、『ありがとう』」とあり、これに掛けてある。
やみの琢磨への愛情とは裏腹に、琢磨にとってはやみは「母親代わり」になってしまう。何も事情が無ければ恋に落ちることもできたかもしれない二人には、絶望的な距離があった。しかしそれでも、「母親代わり」として生きた、はやみの(一方向的な)愛情が滲み出ている日記だ。
ほたるが「ひなた」として生き、「ほたる」として再誕したように、二人が恋愛関係になるには、「母親代わり」としての自分を捨て、何にも縛られない状態へと生まれ変わる必要があった。「精霊会議でお願いするの、大変だったんだよ。」という件の音羽のセリフも、こうしてみると心霊的テーマに対する抵抗と取れる。
そして「だから今度はちゃんと守ってあげてね」と。自分の「母親代わり(自分を守るもの)」だったはやみの死を止めることはできなかった。けど今度は、(自分の「彼女」として)守ってあげなさい、という言葉。はやみが「生まれ変わる」ことで、はじめて2人は対等な立場に立てる。


『H2O』の話をするときに私はいつも『sola』を引き合いに出したくなる。弟の死を受け入れられず、紙でできた人形に命を吹き込んだ森宮蒼乃。自分の作った紙人形の依人は茉莉とともに消えてしまい、残された蒼乃は弟の死を背負って生きていかなければならない。H2Oでも「死を受け入れる」というテーマが正統に引き継がれていて、それはそれで美しい。美しいけれど、そこに残る寂しさ。それを突破するために「生まれ変わる」というテーマを付け足したのが、H2Oなんじゃないかと思っている。

ヨスガノソラ 第6話「アキラメナイヨ」


AT-Xと契約しました。瑛ルート、ものすごく良かった……。
何が良かったかと聞かれると、まず真っ先に、阪田佳代さん、と答えざるを得ない。表情の芝居に相まって、表情以上に「声色」が物語る。「だって、あんなに大切にしていたペンダントだって無くなっちゃったんだもん……」と張り詰めていた気が瓦解していくところ、DNA鑑定の話に「わかったよ。あたし聞く。」と妙に元気な声で(「笑顔の仮面」)返事を返すところ、鑑定の結果を受け取るに際して「ごめん、やっぱりだめだよぉ……」と崩れるところ、表情アップのショットも挟んではいるけど、この台詞を言わせる段ではヴォイス・オーバーだったり顔が隠れていたり。おそらく表情だけでは表現しきれないだろう心理の揺らぎを引き出すためなのかな。ともかくこの迫力は、ちょっと凄いよ。


悠の行動は、一言で言うと青い。でも瑛が好きなのは、悠のその「青さ」。悠は、「DNA鑑定をしてどうする」というやひろの投げかけにも、「永遠につづくものはあるよ!」に対する瑛の全否定にも答えられない。答えられないまま、DNA鑑定の話を進めていく。でもそれが第5話のように「空回り」しないのは、本来自然に訪れるべき「和解」だったから。結局のところ、自然な形での「和解」を阻んでいたのは、瑛の「杞憂」だった。
そう言ってしまえば簡単だが、瑛の葛藤は凄まじいものだった。悠を愛しく思う気持ち、自分の出生の秘密を知りたいという気持ちも本心なれば、一葉たちの関係を思う気持ちも「本心」であった。後述する「性格」と「内面」の関連で言うと、瑛は気遣いをする「性格」であっても、こと一葉たちとの関係を壊したくないというのは、そのレベルを超えて瑛の「内面」(≒本心)であったはずだ。だから瑛はあれだけ後押しされてもなお、鑑定の結果を見ることを拒むのだ。あの母親が自分の気持ちを打ち明けることをしなかったら、最後まで鑑定結果を見ることは無かったかもしれない。
一葉編でも瑛編でも、悠のがむしゃらな行動が実を結んだというよりも、「和解」はすぐそこにあって、いつでもちょっとしたきかっけで変わるものだった。


第5話の器用なところは、悠の「性格」を見せつつ「内面」を隠しているところ。悠の「青さ・純粋さ」(≒性格)と悠の内面(表層的な心理、ではない。表層的な心理ならば、もちろん今まででもたくさんある)は一応のところ独立であるということ。どうもヨスガには、表情のアップに際して、「性格」を見せるアップと「心情」を描写するアップの、似て非なる二種類があるように見える。「永遠になくならないものはあるよ!」と言い切る悠の表情。これがまさに、悠の性格を叙述するものだ。

悠が本当に瑛のことを好きなのか、そんなことは悠にだって分からない。そんな自問自答をすることもない。というか、そんな問い掛けをしないのが普通なんじゃないか。一葉編での悠はヒロイックだったので引っかかる点ではあったが、瑛編のこの「青さ」を見てしまえば、そんな問い掛けをするわけがないと、自然に受け入れられるんじゃないだろうか。内面描写なんて、無くて当たり前なのだ。瑛が好きなのは、そんな哲学的なことでいちいち立ち止まってしまう悠ではない。(そしておそらく、悠が自分から発することのないその類の問いかけを外的に突きつけられるのが、「禁忌」を破る瞬間であるのだろう、と私は予想している)
悠の「純粋さ」さえ見せておけば、あとは「年上」の役どころである瑛の芝居如何ではラブストーリーとして成立してしまう。第5話ではこの采配が見事だった。これは一葉編には無かった繊細さだった。(おそらく穹ルートのために)悠の内面を見せない、というスタンスは一貫しているが、かと言って二人が恋に落ちることに疑問を感じる余地はない。
瑛編を通して第4話のあの「悠の表情のアップ」の意味も掴めた。あれも今回の表情と直結する形で挟まれた、「青さ」だよね。一葉編でも瑛編でも、悠はただ純粋なだけなんだけれど、一葉と瑛で悠の見え方が変わってくる。


瑛編では「切り返し」の使い方と「ロングショット」の使い方が一葉編と対照的、という話をしたが、やひろと悠の会話に顕著なように、第6話もそういう方向性だった。最後で、ロングショットの意味が一転して暖かさを生み出すのが非常に良い。一葉編の情熱とはまた異なる暖かさだった。あと、これでもかとばかりに1〜4話の同ポを仕込んできたのはさすがに気になってる。
しかしまぁ、第4話のあのキスにちょっとミスリードされてしまったかもしれない。というか、あの双子をあの姉妹に重ねすぎた。


そして初佳さんを攻略しかけている、いや、初佳さんが悠を攻略しかけているCパートにビビる。あの星空をセルフパロしてしまうCパートの節操の無さも健在か(笑)

ヨスガノソラ 第5話 「ヤミアキラカニ」


4話で見せた、ゾッとするような瑛の「能面」、その内側に迫っていく回だったと言える。瑛の「笑顔の仮面」が崩れる箇所が大きく4つあって、教室で「昔のことを思い出した」と告げた悠に対して頬を染める表情、二人でペンダントを探しに行った先で「だいすき」という言葉とともに涙、一葉の母親を前にした時の脅え、そして神楽を舞う最中に見せる涙、の4つ。他にも、瑛が一人の時にみせる淋しげな表情というのがしばしば挿入される。


「分岐」方式という構成を採るからには、当然のことながら、瑛のエピソードは一葉編との対比で以て語られることになる。とりわけ、悠の立ち位置が大きく異なっているのが面白い。一葉編では「手を引いていってくれる人」だった悠は、瑛編では瑛のためにとやることなすことが空回りする。瑛と遊んだ森も土砂崩れで地形が変わってペンダントの探しようもないし、「母親を探そうよ」と言い出しても、瑛が既に自分の出生記録を隠し持っていることを悠は知らない。そもそも、Aパート、二人で下校するシーケンスの「天女目はいいよなぁ、自由で」という言葉も、瑛のことを何も知らないからこそ言えるセリフ。瑛は悠にわざわざ言われなくても、ある程度自分から行動を起こしている。悠が瑛の手を引いていこうとしても、瑛は既にその先にいる。

「ぼくは天女目を、ずっと笑顔でいさせてあげたいんだ。だから、諦めないよ」

このセリフの時の悠の表情が、「キメ顔のつもりだけど微妙にキマっていない」感じで、非常に印象的。
一葉編に比べると、まだまだ悠と瑛の距離は果てしなく遠い、という感じで、瑛の淋しげな表情がどのように決着するのかが楽しみなところ。


3話との対比で言うと面白かったのが「切り返し」の使われ方。一葉編だとあの海辺のシーケンスに見られるように、二人の雰囲気を強調する目的でのイマジナリーライン越えだったが、教室のシーケンス、いい感じに盛り上がっていた二人は、カメラが反対側に行った後、一気に冷めてしまう。冒頭の音楽室のシーケンスもそんな感じで、アップで繋いでいたところから、ミディアムロングに切り替わり、

瑛「でも…」
悠「トイレ?」
瑛「違うよ!」

といきなりムードが壊れる(ここちょっと面白かった)。一葉編が情熱的だったのに比べると、瑛と悠を「いい雰囲気にし過ぎない」というディレクションで、5話は構成されているように思える。
そんな訳でなかなかいい雰囲気にならないのでお風呂のシーンはかなり面食らったけど、瑛は悠の先を行っているから、瑛が強引に出るシーンが欲しかったのか。しかし穹に嘘をついてデートに行った挙句瑛の押しに流されてヤッてしまう悠って…って思ってしまう。あの視線とため息を見ちゃうとね。


あと、Aパート最初の方の、一葉が一人で帰っている画というのはかなり強烈。ラストで瑛の机の上にぬいぐるみが置いてあると、ああ誕生会はやったんだな、って分かったり。十字架は悠が穹にプレゼントしたものだとして、じゃああのオルゴールって一体…とか、色々と見どころはありました。


第5話も非常に面白い。とはいえ、瑛と一葉の関係、というか瑛は一葉のこともしかして好きなんじゃねぇの?というのもまた第4話のひとつの側面だったはずですが、5話では一葉が全然出てこなくて二人の関係を匂わせもしなかったのがちょっと辛いところ。瑛が一葉を好きでなかったとしても、一葉編で描かれたのはあくまで一葉の視点からの「姉妹」なので、瑛が一葉をどう思っているか、というのが少しは描かれないと、二人の関係はあくまで相補的であってほしいという私の願望が壊れる。4話の「能面」も一葉に向けてのものだった訳だし。その辺りも含めて次週に期待ですね。