橘秀樹監督の次回作も発表されたことだしちょっとそろそろ精霊会議に決着をつけたい―「H2O FOOTPRINTS IN THE SAND」

ヨスガノソラ』の雰囲気があまりにも『H2O』っぽくて、ヨスガを見ているうちに急激にH2Oが見たくなってしまい、つい全話見返してしまった。号泣した。ものすごく良いアニメなのに、みんな精霊会議というだけで嘲笑するのはあんまりじゃないか、みんなエヴァの(TV版の)最終話があんなでも好きになったじゃないか、というかH2Oも劇場化してもっと最終話を詳しく描いてくれ、とか常日頃から思っているわけだが、そんなことを常日頃から考えている自分こそが一番精霊会議という亡霊に取り憑かれている。
H2O、全話すごく面白いし、最終話もすごく面白い。面白いけど、最終話はスピリチュアルなテーマを滔々と語っている、という側面がある。
橘秀樹監督の次回作、『ドラゴンクライシス
http://dragoncrisis.jp/
も発表されたわけだし、ちょっとそろそろH2Oの最終話と真剣に向き合いたい。決着はつかないかもしれないが、とりあえず、現時点での自分なりの考え。


「FOOTPRINTS IN THE SAND」(詩の内容は http://www.ieji.org/archive/footprints-in-the-sand.html を参照)に込めたテーマとは、人は死んでも離ればなれになるのではない(彼岸から見守ってくれている)、というものだった。辛く苦しい時、足跡はいつもひとつだった――という問いかけに対して、神(=死者)はそれは私があなたを背負って歩いたからだ、と返す。キャラクターたちはみな(琢磨やはやみ、ほたるだけでなく、はまじやゆいまで含めて)肉親と死別した過去を持ち、死別したことに起因する「不幸」を抱えて生きている。そして、彼岸から見守っている霊、を体現するキャラクターとして、ほたるの姉であるひなたの亡霊・「時の音の精霊」音羽がいる。


琢磨に着目したときのH2Oのストーリーもこの詩に見立てられている。琢磨は母親の自殺をトラウマにして盲目になってしまったが、彼は音羽との出会いによって再び目が見えるようになる。「精霊」は新たな「母性」として琢磨を見守っていたが、第8話で退場したのち、琢磨は再び目が見えなくなる。幼児退行してしまった彼の「母親役」をはやみが務めるようになり、二人は東京に越して行って、かつて琢磨が母親と暮らしていた時と同じ環境で、生活を送ることになる。

「母親の代わり」として生き、琢磨の母親の気持ちを経験したはやみは、琢磨に向かってこう語りかける。

私ね、(母親が)あなたのことを置いていったなんて、とても思えない。そんなこと、するはずない。

聞いて。お母さんは、あなたのことを大事にしていた。何よりも大事にしていたと思う。

置いていったんじゃないんだよ。「背負って歩いているんだよ」と。
はやみの語りかけで母親の死を受け入れられた琢磨の前に、再び「精霊」の音羽が現れる。


H2Oのストーリーを包括するものとして、「FOOTPRINTS IN THE SAND」の詩とは別に、「ほたるの書いた絵本」がある。時の音の精霊・音羽というのは、この本の中に出てくる精霊の名前。音羽が琢磨たちの前に現れた時点では未完成だった絵本を、ほたるは第7話で完成させ、その絵本のとおりに音羽は憂いを残すことなく人間界を去る。そしてある種、「FOOTPRINTS IN THE SAND」に対立する形で用意されたこの絵本が、「FOOTPRINTS」の詩を上書きする形で、『H2O』の心霊的倫理観の制約を突破するものなのではないか、と。
第7話のほたるのエピソードは、「彼岸から見守っている霊」というテーマからすると典型的なように見えて、、一度死んだ「ほたる」が再誕するという、「死んだことを受け入れる」というテーマに抗っているという二面性がある。「できないと思い込んじゃダメだ」になぞらえると「死んだと思った時が本当の死」というわけだ。心霊的なテーマに対する抵抗がここに見える。


果たして、第11話までで、琢磨とはやみは恋愛関係であったと言えるであろうか。この「カップル」が崩壊するのはあまりに早かったが、もともと、第9話の「夏祭り(お盆)」や「母の形見の鈴」に表象されるように、琢磨ははやみに自分の母親を投影していた、という側面が強かったのではないか。
はやみが自分の琢磨への思いを綴った日記が感動的だった。

弘瀬琢磨様
たぶん、この気持ちをあなたに伝える機会は、きっと訪れないでしょう。
私とあなたはあまりに遠く、私はあまりに不器用で、気持ちを言葉にすることができません。
だから、ここに今思っていることを全部書きます。
(中略)
好きという言葉では曖昧すぎる。愛しているという言葉では軽すぎる。
だから、なんて書けば一番正しいのか、この気持ちを表せられるのか
わからないから、こう記しておきます。
弘瀬、世界をありがとう。

「世界をありがとう」はさっきの引用元にはないが、作中で語られた詩では、続きに「男は言った。すべてに感謝して、『ありがとう』」とあり、これに掛けてある。
やみの琢磨への愛情とは裏腹に、琢磨にとってはやみは「母親代わり」になってしまう。何も事情が無ければ恋に落ちることもできたかもしれない二人には、絶望的な距離があった。しかしそれでも、「母親代わり」として生きた、はやみの(一方向的な)愛情が滲み出ている日記だ。
ほたるが「ひなた」として生き、「ほたる」として再誕したように、二人が恋愛関係になるには、「母親代わり」としての自分を捨て、何にも縛られない状態へと生まれ変わる必要があった。「精霊会議でお願いするの、大変だったんだよ。」という件の音羽のセリフも、こうしてみると心霊的テーマに対する抵抗と取れる。
そして「だから今度はちゃんと守ってあげてね」と。自分の「母親代わり(自分を守るもの)」だったはやみの死を止めることはできなかった。けど今度は、(自分の「彼女」として)守ってあげなさい、という言葉。はやみが「生まれ変わる」ことで、はじめて2人は対等な立場に立てる。


『H2O』の話をするときに私はいつも『sola』を引き合いに出したくなる。弟の死を受け入れられず、紙でできた人形に命を吹き込んだ森宮蒼乃。自分の作った紙人形の依人は茉莉とともに消えてしまい、残された蒼乃は弟の死を背負って生きていかなければならない。H2Oでも「死を受け入れる」というテーマが正統に引き継がれていて、それはそれで美しい。美しいけれど、そこに残る寂しさ。それを突破するために「生まれ変わる」というテーマを付け足したのが、H2Oなんじゃないかと思っている。