十文字青 「絶望同盟」 ― 承認を求める少年少女の同盟


絶望同盟 (一迅社文庫)

絶望同盟 (一迅社文庫)

「承認されないもの」に承認を求める高校生が互いを承認しあう場、それが「絶望同盟」。一言でいうとそんな感じ。物語展開は極めてシンプルだが、そのぶん性にまつわる深刻なテーマが濃密な一人称の語りによってストレートに表現されている。ごく個人的な主観で言えば、ライトノベルにしては結構刺激が強い方だと思う。
しかしながら、Twitterやらブログやらでいくつか感想を読みあさった中では、「読後の爽快感」という言葉を多く見かけた。id:ub7637 さんはガブリエル・ガルシア=マルケスの著作「百年の孤独」と比較しながら次のように述べている。

百年の孤独』において孤独の果てにたどり着く結末は、作品世界の崩壊に等しいものであった。それに対して、本作では、絶望を抱えるがゆえに寄り添う四人の姿が結末では示されており、救いが感じられる終わり方となっている。そこには、実際ありえないと分かっているからこそ、世界のどこかには優しさが残されていて欲しいという作者のささやかな願いが込められているように見受けられる。それがせつなく、さわやかな読後感を産む要因となっていることは想像に難くない。

http://d.hatena.ne.jp/ub7637/20100220/p1 より引用


最終章は「それを希望とは呼ぶまい」と副題にある通り、彼らの「絶望」は本質的に解消されるわけではなく、しかしながら未来への「願望」を投げかけて締めくくられている。「考え方次第で、人間はいつでも幸福でいることが出来る(152頁)」というミキオの哲学に沿った綺麗な締め方だ。
引用元は最終章の内容について言及したものであるが、それだけでなく各章ごとに少年少女たちの「絶望」にわずかながらの光明が見えることが、こうした「爽快感」に結びつく要素であるとも思う。彼らを「絶望」から救い出すほどではないにしろ、何かしらの変革を感じさせられるような事件。その余韻が「爽快感」として受け止められているのだろう。




第一章はロリコンであることに苦悩する当真ネンジの話。彼は小学生に対して「欲望」を向けており、その「欲望」が社会的に承認されないものであることを自覚している。直接的に「欲望」を表現することの出来ない彼は、代わりに自分の妄想の中の「紙人形」と戯れる。そんな彼は一つ下の学年の「寺田音美」というロリ高校生を紹介される。一つ下の学年ならば社会的な承認が得られるではないか、ということに喜び、木羽と蓮井の強引な後押しで告白しようという段取りまで進むことになる。ところが彼はその段になって、自分が好きなのは、結局「紙人形」の「寺田音美」ではないかということに気づく。彼は結局、寺田に「友達になってください」と告げて、自分の名前は寺田音美ではなく寺永求美です、と返され、そして断られる。
「寺田音美」という名前は告白の直前の段になって蓮井から告げられたものだが、この偽りの名はネンジの「紙人形」の偶像として機能する。そして彼が「寺永求美」の本来の名を知ることで、「紙人形」を破り捨てて妄想の外へと飛び出すための手がかりが得られたことになる。


第二章は「女である自分」に絶望している蓮井カオルの話。「女であること」に絶望するということは、外見が評価に直結すること、つまりは「自分がブスであること」に絶望するということなのだが、外見が承認されないというだけでは「女であること」に対する絶望の動機としては少し弱い。カオルは最終的に自分がレズビアンであることを自覚する。「同性愛」もまた「承認されないもの」であるのだ。その二つへの「絶望」を統合して、「女であることへの絶望」という表現がなされている。
また、第二章には「ぼくらはSEXに絶望する」という副題がついている。「性」ではなく「SEX」という横文字を用いたのは「生物学的な性」であることを強調するためだろう。先天的な特性・どうしようもないことにコンプレックスを抱くからこそ「絶望」という言葉がぴったりくる。
カオルは一年生の頃、「比類なき美人(84頁)」と評する小野塚那智に咄嗟に告白して、フラれた。そして二年生になって、小野塚那智とそっくりの女子、雫石サナと出会い、そしてまた告白して、フラれる。そして靴箱の前で、フラれたもの同士、当真とカオルが互いを慰めあう・承認しあう。


第三章は木羽ミキオの漠然とした厭世観が描かれるが、その原因の一端に幼い頃の母親に植え付けられたトラウマ、愛情の欠落、それらに起因する女性不信がある。この章では「雫石サナ」に「小野塚那智」との二重性を持たせたのが効いてきている。ミキオは小野塚那智に「性格がきつそう」という印象を抱いていて、小野塚に自分の母親と同じ属性を見出している。彼が「性格のきつい女」が苦手なのは幼い頃の母親との思い出が原因だ。彼は、小野塚とよく似た外見をしているが、性格はもっとやわらかそうな雫石と出会い、雫石に連れられて別居している母に会いに行くことになる。すると彼が会った母親は、幼い頃の記憶とはずいぶん雰囲気が変わっていた。こうしてミキオが母親のトラウマを拭い去るプロセスが完遂される。
ミキオの愛情への飢餓は最終章のみならず第三章からも少しは読み取れる。「ともあれ、そのもう一人以外の何者かである可能性は限りなく低い。おそらく、無視していいほどに。(153頁)」とあるように、ミキオは父親が帰宅してくる場面で母親が帰ってくることを少しは期待していたのではないか。


第四章はさらに漠然とした、「絶望」なのかどうかすら判然としないような、雫石サナの「なんとなく絶望」。普段から「ぼやっとしている」「心がガス欠」のサナが、退屈な日常を変革したいと思って、「子供を作りたい」と思い立ち、木羽と性交をするなどと言い出す。
ここで、第四章は次のように読むことが出来る、という提案をする。この章立ての順序として、章が進むごとに「絶望」という言葉が曖昧になり拡大解釈されてゆく、という特徴がある。特に前二章と後二章は「絶望」という言葉の抽象度に大きく隔たりがあり、そのため必然的に「当真―蓮井」「木羽―雫石」というペアリングがなされる。第二章はそうして出来たペアの片方、「当真―蓮井」が互いを承認しあうことで締めくくられた。第四章では必然的に「木羽―雫石」ペアが互いを承認しあおうとする。しかし性交は(いいところまで進んだものの)未遂に終わって、承認は失敗に終わる。「二人の距離は絶望的に離れている(237頁)」。より高次の絶望を抱えている二人は、お互いの心中に理解・共感・承認を求めることはできない。
サナのエピソードは四つの中で最も悲劇的とも読み取れるが、彼女には泣きじゃくる蓮井を子供のようにあやす、という救いが与えられる。ともすると、最も「変革」に近づいたのはサナではなかろうか。



こうして「同盟」の面々は変革へのかすかな光明を得たわけだが、それを足がかりに日常を変革できるほどこの作品の世界は希望に満ちていない。最終章では以前とあまり変わらない日常を繰り返す彼らが描かれるが、同盟はあっけなく解散に陥る。そんな中ミキオは、変革を成し遂げた自分の母親のように、潔癖症をやめ、庭に花を咲かせようと思い立ち、同盟の面々を再招集する。
この最終章で出色なのが、彼らが得たかすかな光明が、日常のなかの小さな差異として反映されていることである。カオルはさほどどもらなくなった。ネンジは「紙人形」遊びは辞められなくても、小学生女子のストーカー行為は辞める。退屈を紛らわすために思いつきで行動するのみだったサナの口から「計画」という言葉が飛び出す。ミキオの口癖「考えておいてもいい」が「考えておく」に変わる…など。


最終章はネンジが次々と夏休みの計画を発表していくことで閉じられる。この「庭の整備計画」の顛末も語られることはなく、「(スケッチブックの中に)色とりどりの花が咲いていた(282頁)」と締めくくられる。最初に述べた通り、これは未来への「希望・展望」を表しているのではなく、「同盟」の面々の「願望」にすぎない。だがミキオの哲学の立場に立てば、その背後にあるのは厭世的な思想ではなくて、「いま」を幸福にするための方法論なのだ。



■余談 雫石サナと小野塚那智の二重性について


私は今回初めて十文字青さんのライトノベルを読んだのだが、小野塚那智というキャラクターはどうも「第九」シリーズを通して登場するらしい。「絶望同盟」は三作目にあたるわけだが、前作と前前作について何も知見を持ち合わせていないので、「小野塚那智は絶望しない」という言葉の意味について一切語ることができない。しかし折角なので、小野塚那智というキャラクターについて一つ問題提起をして締めたいと思う。
雫石サナと小野塚那智の外見が「よく似ている」ということ―二重性―は、主に第三章に効いてきていると述べた。この二人を見分けるポイントは、左目の下に「泣きボクロ」があるかないか、である。表紙のイラストの右側と扉絵の一ページ目はサナだと判別できるし、116-7頁のカオルの妄想と思しき挿絵は右が那智で左がサナだと判別出来る。(本当はこれだけでは両方とも那智の可能性を捨てきれないが、どうやら二人の髪型も微妙に描き分けているようなので、それを考慮に入れれば左がサナだとわかる。が、髪型はあまり本質的ではない。)また、最終章でサナが泣き出すための布石をこの泣きボクロが担っているわけだから、この差異は便宜的なものではなく本質的なものなのだ。
すると、裏表紙の「絶望同盟」というプレートを持った女の子は誰であろうか、という疑問が沸く。もちろんこれは扉絵の那智のイラストを流用したものだから、那智に決まっているではないか、と言われると元も子もないが、決定的な差異である頭部をバッサリと切ってあえて判別不能な女性を提示したこのイラストには何らかの意味を感じざるを得ない。この女の子が決定不可能なのはどういう意味があるのだろうか、あるいは、何らかの要因によってこの女の子が「小野塚那智」だと決定できるなら、それは何を意味しているのだろうか。