戦う司書-The Book of Bantorra- について


先週最終回を迎えた「戦う司書」についての所感。今回は、二転三転する作品の中で、全体を貫く2つの主題、「本」と「記憶」の対比構造と、ヴォルケンの倫理観を取り上げる。


「本」と「記憶」


戦う司書」という作品の根幹に「人は死ぬと本になる」という世界観がある。「本」というのは歴史の真実を映し出すものではなく、「個人」の生涯を記録したものであり、出来事よりもまず「個人」であることに重点がおかれる。第2話から第4話までの「コリオ編」がその典型だ。コリオは本を通じて、シロンは未来視によって、過去と現在に生きる二人が時空を超えた恋愛を繰り広げる。シロンの本で重要視されているのは、シロンの本に記録された龍骸咳の治療法よりも、コリオに対する感情なのだ。


「本」があることによって、「過去への遡行」のための手段が2つに分かれる。本を読むことと、いわゆる「回想」だ。両者は画面に「縁」が付いているか付いていないかで厳密に区別されている。さらには、この2種類以外では基本的に「過去」が語られない、という点にも厳格である。本には「読む人」が必ずいるし、回想も「思い出す人」が必ずいる。「過去」が語られる際には、必ず誰かしらの意思や感情が付随する。
「本」と「回想」の違いとは、「本」は事実がニュートラルな立場で再生されているのに対して、「回想」は語り手の感情が如実に反映されるものである、といえる。例えば、第12話が尺の殆どが「回想」で構成されていて、(他のアニメでは良くある事かもしれないが)戦う司書の中では特異的であると言える。マットアラストの視点から語られる回想の中で、ハミュッツの心の内実は見えてこない。マットのもやもやとした感情は「戦場の煙」として全編を覆っており、現在に至っても「パイプの煙」がマットの視界を覆い隠している。ハミュッツの心が見えてこないマットのもどかしさを巧く表現した好回で、ハミュッツと本当の友情を結べたのはチャコリーだけだった、という第24話の主題に繋がる。
一方で「本」の中に「読み手」の感情は介在しない。しかし前述の通り「本」は個人の生涯を綴ったものであるために、親しい人の本を読むことによって読み手の感情が喚起され、回想へと繋がる、という流れが往々にして起こる。それゆえに、「本」は「個人」と同等のものとして扱われ、「第二の生」という意味合いを帯びる。


「本」は「記憶(=感情)」と対比された上で、「記憶」の方が優先される。このことが取り上げられた話数が19話だ。この話数にはヴォルケンとオリビア・リットレットの2つの軸があるが、その両方において巧妙に「本」が「無くなる」。ヴォルケンの本はミレポックの元には届けられず、オリビアの手元にあった「肉」の本もハミュッツの投石によって砕かれる。しかし、オリビアが「大切なこと」を思い出すために「本」は必要なく、ミレポックを囲む仲間たちもまた、「本」の内容はどうあれ、自分たちの記憶の中にいるヴォルケンのために鐘を鳴らす(弔う)と言う。「本(=記録)」がなくとも、「記憶」がある。このテーゼをオリビアの描写からミレポックの心理へとフィードバックする見事な構成だ。


以上のことを統合して、最終話ではマットが「本とは素晴らしいものだよ」と締めくくっている。このセリフは、もっと分かりやすく換言すれば「人間とは素晴らしいものだよ」となるだろう。マットは、自分が「第二の死」を与えてしまった人たちのために、情報を集め、彼らの生きた証を自分の本に残す、と言う。この言葉には「真実」を克明に記録した「本」でなくとも、人々の「記憶」は元々の「本」と等価か、それ以上に価値のあるものだ、という含意がある。「本」が失われても、「記憶」によってそれは復活させられる。その意まで込めて、マットは「本」は素晴らしいと言ったのだろう。


ヴォルケンの倫理観

「人の死は悲しまなくてはならない。救えることを喜ばなくてはならない。人が生きることを尊ばなくてはならない。」


第二話でヴォルケンが弱々しく呟くこの言葉を、最終話に至ると、ヴォルケンは自信に満ちた姿で繰り返す。フォトナ譲りのヴォルケンの座右の銘、あるいは「武装司書の誇り」は、作品全体を貫く倫理観の柱になっている。第1話のアバンでコリオが「孤独な人間は愛されねばならない」と続きを呟いていて、(歪んだ形ではあるものの)神溺教団と武装司書の間で共有されている倫理観であることも分かる。
エンリケ編(第6話〜第8話)で登場するクモラも、「死を悼むときに泣き、誰かを助けたいと思うときに笑う」といった風に、ヴォルケンに似た倫理観が感情を規定している。エンリケ編に登場する「仮想臓腑」により、「本」が「二度目の生」であるという言葉にリアリティが付与される。「本」に「二度目の死」を与えることによってエンリケはザトーを内破するが、闘いの後に勝利を喜ぶノロティに向かって、エンリケは「笑うな」と戒める。この言葉はクモラの倫理観に則ったものであるのだ。こうしてエンリケ編においてもヴォルケンの倫理観が踏襲されている。
ヴォルケンの恋人、ミレポックが活躍する第13話・第15話ではヴォルケンの倫理観を内破するミレポックの行動が見所だ。ミレポックは第5話でアーガックスを飲んでヴォルケンの記憶を消してしまうものの、心に根付いたヴォルケンの倫理観は強固に残っている。しかしこの2話のうちに、ミレポックはアルメの影響を受けて、ヴォルケンの倫理観に背くような戦い方を覚えてしまう。こうして「汚れて」しまったミレポックが、この後の17〜19話において、ヴォルケンを騙す作戦に加担してしまい、ヴォルケンを追い詰めることに繋がるのだ。(この話数は過去記事: http://d.hatena.ne.jp/mike_neko/20100115/1263503538 に詳しく書いてあるので、参照されたい。)
こうして、第4話で早々と退場して以来1クール近くに及んで蚊帳の外だったヴォルケンは、にもかかわらず異様な存在感を示していた。ヴォルケンは、第17話で「武装司書の誇り」のためにハミュッツと敵対する意思を固めて帰ってくる。そしてヴォルケンは、自分の信じていた「武装司書の誇り」、すなわちフォトナは、神溺教団と通じていたということをハミュッツに知らされる。自分の守ってきた「誇り」を粉々に砕かれてハミュッツに殺される。


続くノロティ編(20話〜22話)で、ノロティはヴォルケンとは対照的な死に方をする。ドラマチックに死んだヴォルケンに対して、ノロティの死がいきなり冒頭から告げられ、ノロティを弔う鐘が冒頭から淡々と鳴る。ノロティの死の真相を解体してゆく、という展開は、これまで貫かれてきた「本」の役目からすると異質だ。その異質感が、これまでの「個人」と「個人」・あるいは「組織」と「組織」の二項対立を、「世界」と「世界」の対立へと飛躍させる。表面上はエンリケの復讐譚として完成されながらも、その実、バントーラ図書館の運命を左右する対決が行われている。


いったん「世界」のレベルまで飛躍した物語は、再び「個人」のレベルへと還元されてゆく。最終話、ニーニウと闘うための精神力として、「世界の力」――名もなき庶民、雑草(すみれ)が求められ、「個人」の重要性が再認識される。ヴォルケンはこうして誇りを回復する。ルルタは、「世界の力」を借りてニーニウにナイフを突き刺す。
ヴォルケンの倫理観は、「個人」の重要さ、不可欠さを訴える言葉として、作品全体を貫いている。