戦う司書 -The Book of Bantorra- 第15話 「少女と少女と神の寝床」


折に触れて「戦う司書」の感想はTwitterの方にpostしていますが、たまには「戦う司書」の宣伝も兼ねてブログの方に書きます。




第15話は篠原俊哉監督のコンテ回で、楽園管理者とアルメが対峙した時の電線、本の中でのパーニィと割れたコップ、ミレポックとアルメが相対する時の瓦礫のように、画面内でフレーミングを行ったカットが多い。特に三番目は廃墟の中という地形を強調する意味でも本質的な役割をしている。

「少女と少女」と並列されている通り、ミレポックとアルメはパラレルな存在として描かれる。両者とも過去に「失った人」を抱えておリ、ミレポックが映画を観ることとアルメがパーニィの本を読むことは並列される。それが彼女たちの共闘につながる。しかしながら、彼女たちの行動原理は正反対であり、アルメは過去に閉じこもることを求めるのに対して、ミレポックは過去を消し去ることを求める。それが瓦礫の土地での二人の闘いを引き起こす。

瓦礫を使ってフレーミングをしたカットは2回あり、ちょうどミレポックとアルメの位置が逆になっている。いわゆる上手/下手の原則を用いて二人の力関係を表していると言っていいだろう。また、特に二回目のカットはパーニィの映画「THE DUEL OF TANIEZE PLAIN」とパラレルになっている。この映画は倫理観=規律として提示され、まっ更な平地の上で、一対一で行う「決闘」が規律であり、死角の多い土地で二対一でアルメと戦うのは背徳的だ。今回ミレポックが「規律に従うだけの自己」を克服するということは、単に人を殺すことではなく、二対一で戦うことにある。


戦う司書」では「本」を通じて現在と過去が接続されることが主題となっているが、その中でミレポックは第5話で「記憶を消した」ことに端を発して、過去を消し続けるキャラクターとして描かれる。ラスコール・オセロ、はちみつ、正義感、これらは全てヴォルケンの記憶の残滓であった。彼女は今回、ラスコール・オセロを殺し、ヴォルケンの倫理観を破りし、「過去を追いかけても、無くした物を追いかけても、何も生まれない」という決別の言葉を放った。彼女は無意識に過去=ヴォルケンと決別した。唯一、彼女がはちみつを紅茶に入れるのを辞めることはないだろうと思えるのが救いかもしれない。