ふたつの「反・ミステリー」――『PSYCHO-PASS』第一期について


最初に第1話アバンの、立体交差点(「十字の構図」)と、ヘリコプター及び螺旋階段の互いに逆回転の螺旋、この2つに注目したい。1話で犯人を追い詰めたところで、征陸と朱が銃を捨て、犯人が人質を手放したところを狡嚙が横から撃つ場面があるが、「十字の構図」は概ねそんな風に適用される。これを推論の構図と見て、仮定と帰結の二軸に分解すると、「被害者」の女性を追い詰めてしまう場面の縦の構図は朱の「決断」だ。宜野座たちが横から割り込んできて勝手に「結論」を出してしまったのだが、少なくとも「被害者」の命を救った決断は無意味だったわけでもないだろう。
十字の構図は「ミステリー」のシンボルであるが、アバンの狡嚙はドミネーター(理性的判断)が通じない犯人と見るや、格闘で犯人と戦う。螺旋・あるいは円運動のモチーフはそんな形で現れる、「反・ミステリー」的運動だ。公安局のマークとして使われているケーリュケイオンのように、アバンには2つの螺旋軌道が現れているが、これらの象徴する「反・ミステリー」とはどのようなものだろうか。
十字の構図および螺旋運動(あるいは円運動)は、第11話で再び中核的なモチーフとして使われる。ただ、詳しくは触れないが、概ねどの話数でも下敷きにされているように思う。


管理社会を象徴するガジェットとして重要な「ホログラム」について、少し触れておく。ホログラムは部屋の内装などを虚飾するが、ホログラムは家具の配置などを含めた内装一式でしか手に入らないらしい。ホログラムの椅子を部屋の好きな位置に動かす、ということはできず、実際の椅子をホログラムの椅子の位置まで動かさないといけない。現代的な価値観からすれば倒錯しているが、つまりホログラムとはシビュラシステムが市民に強いる規範なのだ。執行官たちが抵抗感を示す一方で、朱たちはホログラムに、つまりシビュラシステム中心の価値観に馴染んでしまっている。

第2話で朱の悩みを象徴するのもホログラムだ。彼女を悩ませるものは、第1話で狡嚙を撃ったことよりもむしろ、シビュラシステムが自分を監視官に導いた理由だ。そんなものは、ありもしない幻影かもしれない。しかし、あらゆる選択肢の中に隠れた「シビュラの宣託」を積極的に読み取ることで公安局に来た、「敬虔な信徒」である朱にとって、これは深刻な問題だ。そんな中で、執行官と対等なパートナーとしての監視官ではなく、執行官をただ見守るだけの監視官という現実に直面し、彼女はシビュラシステムの意思をこう解釈したのだろう。「何もしないことが私の天職なのか」と。落ち込む彼女に狡嚙が語る刑事の心構えも、復讐に燃える彼からすればすでに忘れかけている、建前半分の虚飾された言葉だ。しかしそれによって、朱の信仰心は保たれる。


朱が監視官としてどのような活躍ができるかについて、第1話で片鱗が見えて以降はしばらく保留される。というよりも、それは第二期の課題なのだろう。第一期は主に、狡嚙たちの捜査の様子が描写される。
第2話で、犯罪係数が高いことは犯罪捜査の才能でもある、という征陸の話があった。執行官たちはその「才能」から、しばしば推論を飛び越して犯罪者の思考を直観する。第3話に典型的なように、そのような形式で進められる捜査はとうてい公正なものではなく、たとえ真犯人を逮捕できたとしても、現代的な倫理観からすれば問題のある捜査だろう。3話の執行官たちを見てて感じるのは、推論の有効性よりも、むしろ推論の限界である。その意味で『サイコパス』はミステリーではなく、反・ミステリーであるといえる。


第4,5話の御堂将剛、6,7,8話の王陵璃華子は、推論と直観の狭間で捨象されていった犯罪者たちだ。4,5話はネット上の仮想コミュニティが舞台だが、ネット空間はもちろんホログラムの同類だ。ネットは間違っても「現実から解き放たれた自由な空間」などではなく、市民を縛る檻である。槙島が御堂に与えた道具もホログラムを操作する力というお誂え向きのものであり、「不信心」な狡嚙の捜査は、ホログラムと現実の「ズレ」を見るという形で展開される(第4話)。スプーキーブーギーが体制に協力的なのも当然だと思うが、御堂にはそれが許せない。彼の主張する「アバターと実体のズレ」は、実際のところ閾値を超えていないのだが、彼はどんなズレも許せないようだ。一見すると公安局よりも体制側に寄っているようにも見えるのだが、タリスマンとスプーキーの二人のキャラクターを演じることに成功したのは、実は大変なことである。アバターは市民に押し付けられる規範でなければならず、複数のアバターを渡り歩く存在というのは、シビュラシステムが許容出来るものではない。彼は不自由なネット空間のなかで、徹底的な模倣により自由な存在に近づけたのだ。

王陵璃華子の場合、彼女の動機は父親の仕事を反転させたような、社会にはびこる「安らかな死」に対する「絶望」の啓蒙だという。ストレスの無くなった社会において、負荷を与える役目を負うということだ。彼女が人間の遺体を継ぎ接ぎして作る芸術は父の絵画(の模倣)を立体化したものだが、『タイタス・アンドロニカス』が作中で引用されているのを踏まえれば、脚本と舞台の関係と見てもいいだろう。となると「場所」は確かに重要であり、槙島も狡嚙も「場所」に対するコンセプトの無さを指摘している。しかし、狡嚙の言うような陳腐な風刺のなかに閉じ込めてしまうことは、果たして有効だろうか。これがもし父の復讐劇だったなら、『タイタス』の場面をなぞって遺体を配置するなど、工夫もできるだろう。しかし彼女の場合は、むしろ無作為に配置していくことによって目的を達成できたかもしれないのだ。対照的に、9,10話で槙島が狡嚙に仕掛けるゲームはまさに「意図を読むゲーム」(ミステリー)であり、「無作為である」ことの意義について彼らは考えをめぐらすこともない。


御堂と王陵は「可能性のある」人たちだったわけだが、二人がそのことに自覚的だったかというと、かなり怪しい。むしろ描かれているのは、意図しないところに何かが生まれるという現象であり、この現象がもう片方の意味で「反・ミステリー」的である。ならば、二人を弔う者として適格なのは、宣託を聞いてしまうほどの純粋な信仰者である朱しかいないだろう。
第11話で朱が登っていく複雑な立体迷路は、これまでの事件を通じて槙島に迫って来た、その推論のステップだ。朱が迷路を登っていく軌道は左巻きに積み上がっていき、その先で朱はついに槙島と対面する。しかしそこには「ギャップ」があった。この高さは、狡嚙ならば猟銃一つで越えてしまえる高さだったろう。「推論の限界」を前にして、朱は友人を救うことはできない。彼女の「信仰心」は再び試されることになるだろうが、しかしそこに、御堂と王陵の「可能性」が槙島にとって死角だったように、いずれ槙島のいる高さまで辿り着くための、もう一つの「反・ミステリー」の萌芽が見える。朱の前方から三方へと伸びていく道に、もうひと巻きの螺旋を描く朱の動線の可能性を感じる。