『H2O √after and another Complete Story Edition』プレイメモ&アニメ版との比較

『H2O』の原作ゲーム、ファンディスクの『√after and another』と合体しているバージョンを、正月を利用して一気にやりました。


・最初に率直な感想を述べると、アニメ版が好きすぎるせいか、このゲームはあまり楽しめなかった。この子たちはなんでこうもやすやすと他人の心を盗み見てしまうんだと。アニメ版最終話で独白されたはやみのあの日記を盗み聞きして、それが結果的に二人を結びつける鍵になるとか、そんなコミュニケーションの在り方に私は耐えられない。ほたるルートでも、はやみのアフターの1本目でもそうだけど、他人の本音を盗み見ることが物語を決定的に動かしているということが、このゲームの嫌いなところである。
・このゲームは大きく、沢衣村での幼少時代と、各ルートの後半・大人になってから再び沢衣村に戻ってくるくだり及びアフターシナリオの2つに分けられて、とりわけ後者は『FOOTPRINTS』の詩になぞらえて「自分の人生を振り返る」ためのシナリオであるといえる。ほたるが自分の罪と向き合うには、琢磨が母の心を知るには、当時の年齢では幼すぎるのだ。それが『H2O』の根幹たるテーマで、当然ながらアニメ版にも継承されているテーマであるが、しかし子供だから仕方ないよねといって心を盗視する罪へのエクスキューズにしてはいけない。
・そのくせ幼い割に「私がはやみちゃんをいじめなければならない理由」を分析的に喋りだす辺りにも苛立っていたが、アフターシナリオ等で、それが本音とも限らないのよ、という形に回収されていったことで納得がいった。ゆいルートで語られる、ゆいがはやみをいじめる理由なんて、自分でも良く分からない心の動きを幼いなりに分析した結果でしか無いのだ。はやみアフターの1本目にあるように、はやみが好きだからいじめていたかもしれないのだ。
・はまじ・雪路ルートには感動した。このシナリオで、雪路の「母親」として生きることを決めたはまじが「死に」、今度は一人の「女性」として生まれ変わる。アニメ版のあの最終話に直結しているのは本編ではなくはまじ・雪路ルート。
・はやみアフターの3本目『思い出の果てに』、子供時代にケリを付けるために直接的にはやみを「子供」にしてしまうセンスの悪さは頂けないものの、しかしこのシナリオだけは全力で擁護したい。あれほどはやみを苦しめた差別も、しかし時とともに風化しつつあり、風化してしまう前に、ほたるは過去の罪と向き合わなければならない。忌まわしい因習も含めて、この滅びつつある村自体が年老いた親なのだ。


以下は、アニメ版との比較
・ゲーム版の『FOOTPRINTS』の詩は、琢磨がはやみを背負って歩くくだりに象徴されるように、恋人に捧げる詩である。しかしアフターシナリオで(とりわけ『思い出の果てに』で)、自分の人生を振り返って、「自分に寄り添って歩いて来た者、見守る者」の存在に気づく、という意味でもこの詩が登場する。アニメ版での位置づけは後者のほうに近いが、常に子供の視点しか持ち合わせていないのがアニメ版であり、この詩は登場人物の口から語られることはなく象徴的な形で語られることになる。
・はやみの差別の経緯はゲーム版とアニメ版で大きく異なる。少し語弊があるが、アニメ版は村八分でゲーム版は部落差別に近い、と言えば分かりやすいと思う。アニメ版のはやみちゃんが一人で暮らしていると思しきあの山間部にゲーム版では集落があって、その一帯が差別を受けている。とはいえゲーム版では、ゆいルートに語られているような少し複雑な構造がある。重要な違いは、ゲーム版では古い因習に根ざした差別であるのに対して、アニメ版では近景の事件に起因しているという点。
近景の事件に付随する感情はそうやすやすと消すことはできない、だからアニメ版のゆいとはやみは心から和解することはなく村長は逮捕されるのであり、また古い因習はそれに付随する感情を追い越して風化してゆく、という儚さを実現しているのがゲーム版であるといえる。
・アニメ版では琢磨が1話で開眼してしまうが、ゲーム版ではそれがない。琢磨に欠落していたのは母性であった、というのはおそらく共通なのだが、それを他人に求めてしまうのがアニメ版であり、その欠落感を二人で共有することで仲が進展していくがゲーム版である。
・アニメ版の音羽(ひなた)は人を生き返らせるくらい絶大な力を有する精霊だが、ゲーム版は何の力もなくそう名乗っているだけの孤独な幽霊である。「時の音の精霊」の物語だって普通に出版されているマンガであり、ひなたはそのキャラクター・音羽に自己投影しているにすぎない。ただし「ほたるの描いた絵本」というのは、ほたるアフターの2本目『レインボー』から着想を得ていると思われる。「絵本」とは親から子供に読み聞かせるものであり、ほたるが琢磨に絵本を読み聞かせることで母性が立ち現れてくるのが『レインボー』の概要である。ではアニメ版「ほたるの絵本」の読み手は誰なのかというと、それがたぶん音羽自身なのだ。
・風車の話にあたって

風が吹くと 風車が回って 夕日が海に沈んで アジサイの花になる

というはやみの詠む詩がある。コレはもうなんでアニメ版で削ったのって問い詰めたくなるくらい良い詩だと思うのだけど。コレは、目の見えない琢磨に風車の回る様子をはやみが詩的に表現して聞かせたものだが、アジサイの花=二人の子ども、ということで恋の詩でもある。というわけであの風車に恋愛的な感情が籠っていたわけだが、アニメ版ではほたるとはやみの絆の象徴としても出てきているとおり、友情の意味合いを持つに留まっている。