ヨスガノソラ 第12話「ハルカナソラヘ」


穹編のラストは前三編と異なり、異端の道を選んだがゆえの後味の悪さを湛えている。前三編と比較して「これでよかったのか――」と問いかけてくると同時に、唯一、前三編の間「ハズレ」を引き続けてきた穹の孤独だけが、救われる形になっている。


奈緒編での、例のバス停の回想シーンに対応する「いつの間にか埋まっている距離」という主題に対立する形で、今回のAパートは「埋められなかった距離」という主題が、ゴミ捨て場のシーン、音楽室のシーンに見て取れる。
前回の廊下のシーンを照応する形の、梢と悠の対峙のシーン。均衡の取れた対峙の構図に、梢の考える「適切な距離感」が見て取れる。この「適切な距離感」から梢は抜け出すこともなく、結局、第一話の「事故」以来、距離を埋めることができなかった。
奈緒との音楽室のシーンは再びあの回想シーンを照応する形で纏まっている。悠の穹に対する想いを聞いた奈緒の振り向き(例の回想シーンとは向きが逆転)、しかし悠の「でも妹だから!」の一言で押しとどめられる(振り向いても、依然として詰まっていないふたりの距離)。その後、頭を垂れている悠に向かって、奈緒が歩いていき(歩いて行くモーションが描写される)、しかし悠は頭を上げること無く、奈緒は「うまくいかないよね、ホント」と一言言い残して去ってゆく。「すれ違う奈緒と悠」という画は、Bパート、失踪した穹を探すシークエンスにある、星空の下・向きを違える二人、という形で反復される。
Bパート、悠と穹が旅だった後のシーケンスにあるような「恋に破れた二人」の反応の違いが、年齢差や性格以前に、全体の「分岐構造」に根ざしているのが面白い。「自分の番」があった奈緒に対して、全12話を通じて、ついに行動を起こすことのなかった、梢の失意は深い。


Bパートでは双子のアップショットの切り返しが多用されているのが印象的。食卓のシーン、布団のシーン、神社の湖・「向こう岸」にたどり着いた後、ラスト・電車内のシーンの4度に亘って同様の切り返しが使われている(この連鎖はAパート、穹を押し倒した際のショットから始まっているとも言える)。これだけアップの切り返しが多用されるのは『ヨスガ』ではすごく珍しいと思う。前者二つは表情の差異のためのもので、後者二つは同一の表情を強調するためのもの。とりわけ湖のシーンが印象的で、クロースショットの切り返しに見られるように、二人の着ている服やら、髪の長さやらの差異を取り払ってしまえば、二人は同じ顔なのだ。ここの切り返しが、ロマンチックなシーンに見せかけて強烈な異物感がある。
兄と妹という表面上の設定ではなく、同じ顔の二人が愛し合うという、視覚に訴えてくるという点で『ヨスガノソラ』は一段と業が深い。ここに到るまで、同一の顔という要素が過度に強調されることはなかったが、ここの切り返しに、(わざと「似せて」描いたのか)その業の深さが現れていた。


総評として、一葉編・奈緒編に若干の違和感を感じつつも、全体として非常に面白かった。凝った構成をとっているものの、最後の最後に「分岐」が効いてくるまで、「あるべき恋愛の姿」を描き続けてきたストイックな姿勢に敬意を表する。最終話、すごく面白かったです。