「借りぐらしのアリエッティ」について


借りぐらしのアリエッティ。「借りぐらし」とあるのは、人間にものを借りて生活する、という意なのだが、大変な危険を犯して人間の家に「借り」にゆく姿にはやはり「狩り」という意味も掛かっているのだろうな、などと思っていたら、後半になって本当に狩猟民族が登場してしまった。スピラーに連れられて川を下っていったアリエッティたちは、あの後も人間の力を借りて暮らすのか、それとも狩猟採集生活を営むのか…。


アリエッティたちは「小人」なのだけれど、蔦をスルスルと降りた後の鮮やかな走りのアニメートの辺りから、もう「小人」という設定を忘れたいつものジブリのキャラクターと思えるようになる。当たり前だけど、アリエッティのその「小ささ」というのは、昆虫や猫などの日常的に大きさの知れるものと相対化されて初めて意識に登ってくるものだ。アリエッティが普段家族と暮らしている家の中では、普通に「人間」が暮らしているように見える。
小人の「小ささ」を意識させる描写はもちろんそこかしこに溢れかえっていて、そのフィルターを通じてキッチンや庭などの日常の風景が冒険の舞台として迎えられる楽しさがある。それと対照的に、翔とアリエッティの二人が登場するときは、意図的にしばしば二人を「同じ大きさ」に描いているような印象を受けた。顕著なのはアリエッティと翔が葉っぱと網戸を隔てて会話するシーンで、遠近の違いが巧みに二人を同じ大きさに見せている。
小人は人間に寄生する存在とはいえ、人間と小人は「対等な存在」として描かれる。逆に、翔がアリエッティの家を乱暴に「作り替える」ところでは、「手の大きさ」が暴力性の象徴として、畏怖の対象として現れてくる。小人から見て「人間」がどのように映るか、というのを「大きさ」によって表現しているのだ。それらを受けたラストのアリエッティと翔の別れのシーンが秀逸で、「頼りになる存在」というニュアンスを「指の大きさ」に込めつつも、二人の表情のは「同じ大きさ」で描かれている、というもの。


難点を挙げると、アリエッティと翔が「和解」をするところはもう少し描写が欲しかったかも。翔が小人たちに「暴力」を振るったのは、病気による死への恐怖の裏返しで…と言い訳されただけであっさりと和解してしまうのはちょっと待てと。というより、アリエッティが悲しそうに話しているというよりは、イライラしているようにしか聞こえなかったのが気に入らなかったのかも。


あと、水の表現が面白かった。ジブリはよく涙を大げさな粒で表現するけど(もちろんアリエッティが泣くシーンも例外ではない)、アリエッティの母親が入れるお茶がやけに粒々しているなーと思ったら、ああそうか、この人達は一滴二滴とかそういう単位で水を飲んでいるんだなと。