「戦う司書」 第11話・モッカニア編について


7/4にTwitterでpostした内容に加筆したものです。


戦う司書」が「本」という素材を用いて最初に扱ったテーマは、本来対象に対して一方行的であるはずの「本」が普遍的なモチーフを通じて双方向的になりうる、というものであり、「本」を通じて時空を超えた恋愛劇が展開された。モッカニア編の第11話では、コリオ編(2〜4話)から継承されたテーマとして、「本」のなかのいかなる要素が過去の人間を「その人」たらしめているか、という問題が扱われている、といってよいだろう。具体的には、過去に死んでしまった大切な人と、容姿を似せ記憶を移植した、いわば過去を現実に引き戻した人間との間に、連続性は認められるかという問い。ウィンケニーは新溺教団の命に従って、モッカニアのもとに死んだはずの「母親」を連れて来る。
モッカニアはウィンケニーに脅されつつも、もう一度母親と暮らすことを夢見て、あるいは「もう一度母親を失う」ことを恐れ、「本物の記憶を持つ偽物」との欺瞞的な関係を認める。しかしオリヴィアが、自分が偽物だと自覚した時点で、それ以上嘘の関係を続けることができず、自殺する。その行動はかつて母親から教わった倫理に根ざしている。そしてその倫理こそ、モッカニアにとって「母親」そのもの、「記憶」以上にかつての母親と暮らした日々に直結するものである。
こうしてモッカニアの話だけを追うと、本から「記憶」や「容姿」だけを抽出したのでは完全に「その人」を再現したことにはならない、という風に論が閉ざされる。しかしながら、モッカニアに「母親」をプレゼントする側の視点が加わっていることで、そう単純には行かず、実在性を巡る二人の価値観の違いが、物語を面白くしている。モッカニアの「偽の母親」を創りだしたウィンケニー自身もまた、幼い頃に母親を失う経験をしているのであった。
ウィンケニーは幼い頃に教団に預けられて以来、どこかで生きているはずの母親の幸せを信じて、教団のために働いてきた。彼はモッカニアの天敵となるべく教団に育てられ、彼の人生はモッカニアという人間を理解するためのものであったが、そうして教団に忠実に尽くしてきたのはひとえに母のためであった。ウィンケニーはトアッド鉱山の宿場で偶然母と再会を果たすが、その時の母はまるで自分のことを覚えておらず、その時を以てウィンケニーは母親との「別れ」を悟る。彼もモッカニアと同様に幼い頃に母親を失っていたのだ。そして彼は、今まで考え続けてきたモッカニアの心理を「理解」する。
しかしながら、彼の母親との「別れ」とモッカニアの「別れ」では少し位相が異なる。彼にとっては、宿場の女主人が自分のことを覚えていてさえくれれば、それで良かったのだ。母親の存在だけを拠り所に今まで生きてきたウィンケニーにとって、「自分のことを覚えてくれている」ということこそ、母親が母親たりえる条件だった。彼は、教団の命令とはいえ、「偽物の記憶を植え付けた母親」をモッカニアにプレゼントするという、第三者からしたら皮肉としか思えないような行動を取る。しかしウィンケニー自身ならば、そのような「偽物の母親」があの宿場に居たとしても、それで良かったはずなのだ。なぜなら彼にとっては、「記憶」こそが「母親」そのものなのだから。
それに対してモッカニアは、それまでの母親と暮らした日々があり、いくら「本物の記憶を持つ偽物」が出てこようとも、そこに在りし日々からの連続性は認められない。似た人生を送った二人の間には決定的な違いがあり、ウィンケニーがが「理解」したというモッカニアの心理とは、モッカニアに自己を投影したものに過ぎない。ウィンケニーは最後にそのことを認めつつ、それでも自分が果たせなかった母親との再会が見られたことに満足し、ハミュッツに葬られて死んでゆく。
モッカニアもまた、自分と「偽の母親」の間の問題から多くの人を犠牲にしたことに対して、罪の意識を感じ、自害する。彼の「ただいま、母さん」という独白から画面がホワイトアウトとしてモッカニア編は閉じられるが、この「ただいま」という言葉は、彼岸にいる「母親」に向けた言葉であると同時に、彼と母親との暮らしの原点、母の教えに「ただいま」という意味も込められているのだろう。