「マイマイ新子と千年の魔法」について その2

先日三度目になる「マイマイ新子と千年の魔法」の鑑賞に赴いたので、また再び簡単なレビューを。



五ヶ月前のエントリで以下のような話をした。(一部改変してある)

マイマイ新子では、時代を経ても変わらない普遍的なものを抽出しようとしている。松の木に代表される草木、国廰(こくちょう)の碑はそれらの普遍性の一部であり、「千年の魔法」の一部と呼んでもいいかもしれない。千年前の時代で、さらに千年の昔のことを思って松の木を讃える歌を詠むシーンにその普遍性が象徴されている。


凪子の祖父が歌を詠むシーンは、私がマイマイ新子の中で一番好きなシーンの一つだ。そしてもう一つ、エンディングのスタッフロールの最後にある、高さの違う2つのタンポポの上に蝶が一匹ずつ止まっている画も、同じくらい好き。
マイマイ新子」では「時代を経ても変わらないもの」として「植物」が描かれる。その裏で、人間を含めた「動物」には「生死」の概念が結びついている。凪子の切った色紙は金魚「ひづる」になり、凪子(貴伊子)のちぎった花びらが新子のコップの中にひらひらと落ちてくる。百年前と現代の結節点となるこの二つの箇所で、動物と植物の対比が見て取れる。


動物の死、あるいは世代交代というのは、長い年月の中で当たり前に存在するものだ。マイマイ新子の中ではいくつもの「死」が、時には悲壮に、ドラマチックに、時には淡々と、むしろ肯定的な印象すら伴って、登場してくる。タツヨシの父や新子の祖父は死に、ひづる先生や新子は引越してゆく。エンドロールの最後のタンポポと蝶の絵は、「新子と貴伊子」あるいは「親と子」を象徴した図像であるのだが、長い時間(タンポポ)の中でほんのわずかな時間生を宿した命(蝶)、というイメージを下敷きにしている。作品のテーマと共鳴して、タンポポの上に蝶が止まっている瞬間が生命の営みに見えてくる。だからこそラストショットの画は美しい。



昨年の11月下旬に公開された本作はロングランを続け、現在でも各地で上映されています。五月からは静岡と新潟でも配給されるそうです。未見の方はぜひ。


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「マイマイ新子と千年の魔法」について