2009年 ベスト/ワーストアニメ

この記事は、EPISODE ZEROさんと、反=アニメ批評さんの合同企画のためのエントリです。以下に企画概要を掲載します。

■「2009年ベスト/ワーストアニメ」
• 執筆形式・論述分量自由
• ベスト/ワーストの定義も自由
• 挙げる作品数も自由
• 書きあがった記事は「反=アニメ批評」か「EPISODE_ZERO」の告知記事にトラックバックを送っていただければ、後々そのまとめ記事を作成します
• 記事の一斉アップ時間は12月27日(日)23時〜24時の間(23時直後推奨)
• その時間帯は都合が悪いという方でも、年内にトラックバックしてくださればまとめ記事に対応させていただきます


http://d.hatena.ne.jp/ill_critique/20091220/1261317064 より転載

2009年ベストアニメ:宇宙をかける少女

宇宙をかける少女 Volume 9<最終巻> [Blu-ray]

宇宙をかける少女 Volume 9<最終巻> [Blu-ray]

この企画では、どうやら「ベストアニメ」の定義から入るのが良さそうなので、私が思う「良いアニメの基準」として、@manaboo2009さんが「生徒会の一存」を評するときに採用した、「1.一貫性(統一性) 2.効果の強さ 3.複雑さ 4.オリジナリティ」を採用することにする。(この基準の原典は「フィルムアート映画芸術入門」という本の55頁であると、同氏は述べている。誤解の無いように、私はこの本を読んでいない、ということを述べておく。)
「ベストアニメ」として「宇宙をかける少女」を挙げるからにはこれらすべてをある程度満たしている、と思っているのであるが、特に3.複雑さ、4.オリジナリティに関しては抜きん出ている、と考えている。ここで、論点をひとつに絞るために、「ソラかけ」における3.複雑さ、すなわち「ソラかけ」が単独で強度を持つレイヤーを複数有していること、を了解事項とした上で、それらのレイヤーの中で一つを抜き出し、それについて主に1.一貫性および4.オリジナリティについて述べたい。今回話すのは、「宇宙をかける少女」が、「ボーイ・ミーツ・ガールもの」と対立する物語構造を有しているという側面であり、主に秋葉とレオパルドの関係について考察する。




「恋愛」ではない「男女関係」とは何なのか。現実には恋愛として綺麗にまとまる関係で尽くされることはなく、「妥協」の上で成り立つ関係が一定の割合を占める。秋葉とレオパルドの関係は「お見合い」であって、魂がひかれあう「恋愛」ではない。「宇宙をかける少女」は「ボーイ・ミーツ・ガールもの」と明確に区別され、「ボーイ・ミーツ・ガール」構造の独占市場状態に近い現在のTVアニメ界に一石を投じている。
「お見合い」と「恋愛」の違いは、同スタジオが2007年に制作したアニメ「アイドルマスターXENOGLOSSIA」との対立構造でもって明確になっている。「ソラかけ」の第2話、秋葉がベッドから落ちるシークエンスと、「ゼノグラシア」の第2話で春香がベッドから落ちるシークエンスはほとんど同一だと言っていい。同一のプロットを間借りして、第1話の根幹を変えることによって、それらの間の対立構造を浮き彫りにしている。「ソラかけ」は「反・ゼノグラシア」の立場を採ることで、「ボーイ・ミーツ・ガール」からの離脱をしている。
「お見合い」で結ばれた男女は幸せになれないのか、妥協を多分に含んだ関係は妥協の上でしか成立しないのか、と言えば、もちろんそんなことはない。秋葉は「宇宙をかける少女」という大役を押し付けられて、揺れる。それはちょうど、宇宙空間の浮遊感に喩えられる。最終話の「あしもとに宇宙」で語られているのは、上下左右の区別もなく、「あしもと」も何もない宇宙空間に、秋葉が「あしもと」を見つけて立つことができた、ということである。秋葉にとって、レオパルドは「対等な関係」であると同時に、「乗り越えるべき対象」でもある。この点に、ボーイ・ミーツ・ガールとは異なる独特の面白さがある。


ところで、「ボーイ・ミーツ・ガールもの」であっても「お見合い」という出発点は十分ありうる。最初は諸般の事情によって巡り合わされた男女が、最終的に「恋愛」に着地する、というプロットは、「ボーイ・ミーツ・ガールもの」としてごく普通に成立する。「お見合い的関係」と「恋愛的関係」の違いというのは、出発点だけを見ても明らかにならない。「ソラかけ」における「お見合い」と「ボーイ・ミーツ・ガール」における「お見合い」の間の微妙な差異は、2つの観点から明確にされている。1つは、「魂がひかれあう関係」を秋葉のそばに置くこと、もう1つは秋葉とレオパルドの関係の両極端となる2人組を置くこと、である。
前者の方は「イモちゃん」のことである。「ソラかけ」はむしろ、「秋葉とイモちゃんの物語」と見たときには非常に見通しが良い。秋葉とイモちゃんは最初から最後まで「魂がひかれあう関係」であり続け、途中で分断を経験しながらも、最終話はイモちゃんと秋葉のショットで締められる。このような視点では、「ソラかけ」は秋葉とイモちゃんがともに危機を乗り越えていく物語である、という風に捉えられる。そう見ただけでもオーソドックスで十分面白いのだが、イモちゃんとの関係の描写は、逆にレオパルドとの関係との差異を浮き彫りにしている、といえる。
後者の方は「つつじとベンケイ」「ナミとネルヴァル」を指している。上に述べた通り、「お見合い」から出発した関係は「恋愛」へと着地することもあれば、逆に「破局」に着地することもあり得る。「つつじとベンケイ」の関係あるいは「ナミとネルヴァルの関係」をそのまま「恋愛」「破局」に喩えるのは少し無理があるが、彼らを「成功」「失敗」と単純化して、この2組の関係を通して秋葉とレオパルドの関係を見たとき、秋葉とレオパルドの関係というのは、この両極端な状態の中間として捉えられる。「ソラかけ」において、「つつじとベンケイ」は理想的な「ボーイ・ミーツ・ガール的関係」のモデルであり、「ナミとネルヴァル」は「お見合い的関係」の失敗例である。またここで、「お見合い的関係」と「ボーイ・ミーツ・ガール的関係」の間の序列は全く自明でなく、どちらも男女関係のモデルとして独立して存在できるものである。
少し話は逸れるが、つつじは「揺れる」キャラクターの多い「ソラかけ」の中で、数少ない「芯の通った」キャラクターであるといえる。彼女の突拍子も無い言動は最初こそただ笑いを誘うものでしか無いが、次第に我々はその中に彼女の哲学を見出す。太陽の火の輪くぐりのシークエンスは彼女の情熱的な生き方の象徴である。彼女はいつも彼女なりの哲学をビシッと言い放つ、という点が痛快である。一方でナミは、秋葉にとってのイモちゃんのような存在もおらず、完全に周囲から孤立する。最後にナミにもたらされる救いは、つつじから、彼女なりの哲学によって引導を渡される、というもの。秋葉を挟んだ両項のサイドストーリーも、このように綺麗なオチをつけられている。



まとめると、「ソラかけ」は秋葉とレオパルドの関係と「ボーイ・ミーツ・ガールもの」との差異を明確にしつつ、「お見合い的関係」を積極的に肯定している、ということである。今回「切り捨てた」他のレイヤーとして、例えば先程少し述べたサイドストーリーとしてのつつじとナミの物語や、秋葉とイモちゃんの関係を追った時の物語、あるいは全体から俯瞰した時のネルヴァルと獅子堂陣営の戦争の構造、そして番外編の第9話、等々が挙げられる。



2009年ワーストアニメ:かなめも

かなめも いち【初回限定版】 [DVD]

かなめも いち【初回限定版】 [DVD]

さて、ill-critiqueさんの告知記事を見るに、この企画の興味はむしろ「ワースト」の方にあるように思われる。私にも嫌いな作品の1つや2つはあるが、そういう作品を挙げて欠点を列挙したところで、私には面白い内容は書けそうにない。というかそもそも「ワースト」に選ぶ時点で、その作品に対してある程度の興味を持っていることは明白ではないのか。そこでここは「ワースト」を誤魔化しつつ好意的に解釈して、どうも素直に面白いと思えない、しかし興味は引きつけられる、そんな雰囲気の作品をひとつ挙げたいと思う。「かなめも」である。


さて、「かなめも」について考える際に、この企画の発起人であるところのEPISODE ZEROさんによる、その異常性を指摘したエントリを無視するわけにはいかない。


かなめも』と労働と死者の話

実は最初からアニメ版の『かなめも』にはどこか気味の悪いというか居心地の悪いようなところがあって、それがずっと消化不良で最後まで残った感がある。で、その気味が悪い要因を表現論の視点からではなく内容面から探っていくと、「労働」と「死者」の二つに行き着くのではという話。

http://d.hatena.ne.jp/episode_zero/20091002/1254495950 より引用

このエントリにおいて指摘されている通り、かなめも」という作品は我々の感覚から非常に「ズレた」作品である。深夜アニメにもかかわらず「早起き」をする少女たちの朝を描くし、新聞というもはや旧世代的なメディアを題材に扱っている点も共感しにくい。そして「労働」と「死者」という深刻なテーマを、微塵も深刻ぶることなく、かといって誤魔化すこともせず、無頓着に画面に反映させる。そもそも新聞屋のメンツの「ズレた」キャラクター性からして何をしたいのか分からない。ミュージカル回は意味不明だった。その無神経ぶりには「ワースト」という言葉が相応しいかもしれない。


しかしながら、この作品は真剣に「死者」および「新聞」について向き合っている作品であると思う。「新聞」は「時事性」として作品を覆っている。「台風」「お盆」「風邪(→インフルエンザ)」と、季節に合わせたエピソードをチョイスしている。「コミケ行ってないでお盆くらい帰省しなさい」とか「体調管理はしっかりしなさい」とかいう説教まで聞こえてきそうである。中瀬理香さんと横手美智子さんは我々にとっての「おばあちゃん」なのかもしれないという錯覚まで抱きそうである。
中でも、第7話の「お盆」回は時事性を持ちながら「死者」というテーマについて核心に迫っている、という点で秀逸である。「死者」とはかなのおばあちゃんのことであり、「かなめも」はかなの「独り立ち」を描いた成長物語である。第8話はかながおばあちゃんを正式に送り出す回であり、「おばあちゃん」という対象が形を変えながら画面に登場し、送り届けられるまでが綺麗にまとめられている。
この直後の第8話は風新新聞のかつての勤務員「マリモ姉さん」の「思い出話回」である。原作3巻まで既読の私はこの「マリモ姉さん」がアニメのオリジナルキャラクターであることを知っているが、かなのおばあちゃんと対になるキャラクターを用意したのは面白いと思った。マリモ姉さんは、風新新聞にとっての実質的な「死者」であり、店頭のポスターの「欠けた一人」であり、そしてここが重要なのだが、風新新聞の面々にとってマリモ姉さんはすでに「思い出化」している。
12話でかなはマリモ姉さんに一人で出会う。「思い出化」されたマリモ姉さんが風新新聞の他の面々と出会うことはない。マリモ姉さんの「代わり」として入ってきたかなが真に風新新聞に迎え入れられるためにはこのエピソードが不可欠である。そして最終話。「死者」というテーマはかなの独り言という形式で毎回綴られているのだが、最終話でこの「独り言」が大きく覆される。この独り言はかなの「日記」という形で綴られていたものだ、ということが明かされる。おばあちゃんへの「依存」が「思い出」に変わる瞬間であり、かなの「独り立ち」の瞬間である。「かなめも」は「死者」というテーマを描ききった!


こうしてみるとかなの成長物語として強い説得力があるが、最初に挙げた多数の「ズレ」が作品全体に敷衍していて、俯瞰してみると非常に奇妙な格好をしている、と言わざるを得ない。しかしながら、7話後半や12話後半のシークエンスで泣かされるのも否定できない事実である。




遠藤綾さん演じる南ゆうきが、どうしても「ソラかけ」の神凪いつきとしか思えず、それがどこぞの女とイチャイチャしているのに腹が立ったから選んだ、などという本音は、絶対に隠蔽せねばならない。




さて、この企画に間に合わせるために徹夜で記事を書いたせいでおかしなテンションになってしまいましたが、まあお祭り気分ということでご容赦ください。ベストの方は、他の候補としては「青い花」「化物語」「生徒会の一存」などは素晴らしいと思いました(集計に入れなくて良いです)。