「マイマイ新子と千年の魔法」について


「千年の魔法」とは新子の想像力のことで、さらにそれは祖父から孫へ、新子から貴伊子へと伝承されるものである。「マイマイ」とは新子の前髪のハネのことで、跳躍のイメージ、新子の「想像力」の暗喩である。防府の外部からやってきた貴伊子と防府で育った新子の交流・成長が話の骨子となる。
ここで、新子と貴伊子の関係というのは、「内部/外部」、「上下世代」であるのだが、新子は貴伊子の家に行ったとき、植物園のような二話や瀟洒な作りの家を見て、自分の空想の中のお姫様・諾子を貴伊子に重ねている。最初は新子の主観が支配する画面の中に他者の視点として導入された貴伊子であるが、次第に新子と想像力を共有するようになり、ついには新子の想像力を継承し、一人で千年前の世界にトリップすることができるようになる。貴伊子は「マイマイ」を持って、諾子として千年前に現出する。これが新子の想像力を「魔法」と呼ぶ所以であろう。「魔法」とは自己完結した想像力のことではなく、他者へと働きかけることのできる想像力のことである。


本作の特徴は流れる時間の同在的な描き方にある。それはつまり、(新子の「想像」の中の)千年前と現在の「クロスカッティング」であるのだが、千年前の世界は新子の「空想」として作中に現出するため、現在と千年前が画面の中に同在しうる。さらには、現在と千年前の境界を曖昧にするだけでなく、現在においても時間の流れを曖昧にしている(例えば「青い花」の最終話のような時間の流れ方、といえばいいだろうか)。こうして時間の感覚を曖昧にすることによって、時代を経ても変わらない普遍的なものを抽出しようとしている。松の木に代表される草木、国廰(こくちょう)の碑はそれらの普遍性の一部であり、「千年の魔法」の一部と呼んでもいいかもしれない。千年前の時代で、さらに千年の昔のことを思って松の木を讃える歌を詠むシーンにその普遍性が象徴されている。


本作の大きな山場として、タツヨシと新子がバー・カリフォルニアに乗り込む場面と、諾子(=貴伊子)が千年前に貧しい生活の人々に触れあう場面が、(通常の)クロスカッティングで描かれるシークエンスがある。このシークエンスは作品の中での「大人」の役割について切り込んでいる。大人たちというのは、先人たちとして、新子たちに「魔法」を伝える者たちとして、新子たちから尊敬を集めている。ところが、ひづる先生は学校を辞めてしまい、タツヨシの父は首をくくって自殺し、新子たちは大人たちへの尊敬を見失う。新子たちは「タツヨシの父の敵討ち」を目論んでバー・カリフォルニアに討ち入るのだが、その中で新子たちは思いがけず、ヤクザたちの中に尊敬すべき「大人たち」を見るのである。一方で自らの想像力によって千年前に到達した貴伊子も、他者に「魔法」を継承することを経験する。さらに、これらを並行して描いたシークエンスの締めとして、諾子が千年前で落とした花びらが、バーの天井からひらひらと落ちてくるシーンがあり、思わず声を上げそうになった。「魔法」とは「親」から「子」への伝承であり、その役割は時代を超えて普遍的である。明確なクロスカッティングで現在と千年前を区別して描いたことによって、「魔法」の普遍性が花びらとして表出する。
新子たちは魔法をかける人間としての役割を自覚する。金魚・ひづるは千年の魔法によって蘇り、「大人たち/想像力」の復権が象徴される。


本作において素晴らしいのは、過去を描くにしてもノスタルジーを描くに留まらず、巧みな時間の描き方によって時代によらず普遍的な対象を浮き彫りにしている点である。「魔法=想像力」を新子へと継承した祖父は亡くなり、「魔法」を貴伊子へと継承した新子は旅立っていく、という終え方は、作り方によっては悲壮な場面にも成り得るであろうが、彼らは清々しく退場していき、観終わった後には爽快感が残る。それは、貴伊子も自分の「子」に想像力を継承させていくのであろう、という「未来」への展望が容易に想像できるからである。千年の魔法の伝承は、新子が役割を終えて退場した後も続いていくのである。




以上、あまり詳しくはありませんが、「マイマイ新子と千年の魔法」の感想でした。私が見たのは「新宿ピカデリー」という劇場で、そこでは昨日・17日が最終日でしたが、19日から「ラピュタ阿佐ヶ谷」という劇場でレイトショーが始まります。未見の方には是非とも薦めたい。私も時間があればもう一度見に行きたいと思っています。