ささめきこと 第1話 「ささめきこと」 - 「観察」あるいは「監視」を主軸とした作劇


最近はどうも「青い花」以来恋愛アニメにはまっていましてね、「君に届け」に続いて「ささめきこと」もとても気に入りました。それで、「true tears」「WHITE ALBUM」「青い花」「君に届け」と4つの恋愛アニメを見て、どうやら恋愛アニメにおいては、モノローグという道具を用いずしてキャラクターの心情を掘り下げていくのは難しい仕事のようだ、ということが分かりました。「君に届け」に至っては第一話の全体をモノローグを主軸に構成する、という、ある意味で開き直った技巧を用いています。ところが、「ささめきこと」の第一話では上にあげた4つに比べてモノローグがほとんど用いられていなくて、その意味においては倉田英之さんは岡田麿里さん・高山文彦さん・佐藤博暉さん(金春智子さん…はむしろモノローグを積極的に用いている、という点で他と異なるので除外しておく)に比べて一枚上手の脚本を書いているとも言えます。それが可能なのは、「ささめきこと」の第一話においては、「観察」による「一方的な理解」を主軸にしてあるからだと思われます。この話題は一番最後にすることにして、とりあえず本編の内容から感想を書きます。


まずアバンにおいて、汐が教室の中でキスしている女子2人を「観察」していて、汐の隣にいる純夏が汐の様子を「観察」しています。次にAパートの図書館のシーンで、汐が隣で一緒に仕事をしている図書委員の先輩を「観察」し、さらに書架の間に隠れて純夏が2人の様子を「観察」しています。この日の夜に、帰宅した純夏が母親(…でしょうか、わりとお金持ちのようなので、家政婦さんかもしれません)に「明日は何が食べたいですか?」と訊かれて、「タコさん」と、その日の汐の弁当にあった「タコさんウィンナー」をさしてそう言います。このシーンでは純夏の細かな「観察ぶり」が窺えるシーンで、また同じ晩に「監視」に疲れた眼に手を当てて「やれやれだ」と数少ない「ひとりごと」をつぶやくシーンもあります。しかし次の日、弁当に入っていたのは「タコさんウィンナー」ではなく「本物のタコの足」で、実はこの時点において、「一方的な理解」が孕んでいる「すれ違い」というドラマが予言されているのです。そして唐突に、純夏は図書委員の先輩のことで浮かれている汐に向けて、「最後は結局断られるんだから、時間の無駄だよ」という内容の辛辣な言葉を投げます。
ここまでで、きよりが割とコミカルなキャラクターを演じてくれていたおかげで、「監視」を主に扱っている割には話が重くならずに済んでいたのですが、我々の「ささめきこと」に対する「一方的な誤解」もこの時点で崩壊します。このセリフは予定調和ではなくて本当に唐突に見えたのですが、なぜ純夏はこのような言葉を投げるに至ったんでしょうか。まあその理由については後々明らかになってくるから今はお察しくださいという立場なのでしょうが、最も無難でどうとでも取れる答えを書くならば、自分から汐への「一方的な監視」が、双方向のベクトルにならないことに対する苛立ちが、このようなセリフにつながったのでしょう。
そしてその日の放課後で、汐は「図書委員の先輩」が男子生徒に対して、顔を赤らめて手を震えさせながら、本の貸出カードに記入をしている様子を「観察」します。汐は純夏の言葉のショックで思考がネガティブになっていると思われますから、ここの時点でおそらく男子生徒が先輩の「彼氏」あるいは「好きな人」なのであろうと考えていて、自分にとっての「理想」がその次に映る汐の「妄想」の正体なのであろうと、推察されます。そして、その汐の考えは当たらずとも遠からずなのですが、実際にはただそれだけの予定調和にはならずに、我々の「一方的な想像」のやや斜め上を行く展開を用意していて、視聴者を「一方的な理解」の矢印の鎖の中に組み込んでいるところが、「ささめきこと」の凄いところです。


Bパートに入って、Aパートの始まりを反復することで「変わらない日常」を演出していますが、純夏と汐の亀裂は修復されないままで、純夏が汐に声をかけるべきかどうか迷っているところに、先生が純夏と正樹くんを呼び出して、純夏は汐に声をかける機会を逸します。ここで、純夏が正樹くんの頭上に落ちてくる段ボール箱を蹴り飛ばすシーンがありますが、私は勝手に、きよりは「青い花」のあきらみたいな子だから、純夏はふみちゃんみたいな子なのかなーと思っていたので、ちょっとここのシーンはびっくりしました。まあ、「一方的な誤解」の中に組み込むべきなのかどうかはともかく。
その日の夕方に、純夏はその日のうちに汐との関係を修復すべく、汐の図書委員の仕事が終わるのを一人で待ちます。その時に、「ささめきこと」第一話において唯一のモノローグが入ります。「友達っていいな」と。唯一のモノローグだけに、この短いモノローグの中に一体どれだけの感情が込められているのだろうと、あることないこと「一方的な想像」をしてしまいますが、汐との関係の修復を望んでいることがまずあって、さらには、もしかしたら、汐との関係として「友達」というのを望んでいて、「恋愛関係」を望んでいない、ということまで推し量れるかもしれません。後者は「あることないこと」の一端ですが。
そして、純夏の「監視」の外側で、汐と先輩の間の事件があります。昨日の「男子生徒」のことが好きだったけれども、「男子生徒」は汐のことが好きで、汐目当てで図書室に通っていた、と「先輩」が知ってしまったことで、汐は先輩から「八当たり」されます。ここにも「先輩」から「男子生徒」へ、「男子生徒」から「汐」への「一方的な矢印」があって、一周して先輩から汐に「八当たり」が帰ってきたわけです。結果的に、自分から先輩への「一方的な監視」の返事が「八当たり」になってしまうという、思ってもみない形で汐は先輩から拒絶されます。


純夏が図書室で泣いている汐を見つけたその帰りのシーンが、今回の「一方的な監視」にまつわる挿話の落とし所です。最初、純夏が先頭を、汐がその後ろを歩いていて、「監視するもの・される者」の非対称性が明確に表れています。そこで、汐が純夏に向かって手を差し出してきて、二人が手をつなぎ、汐が純夏の隣まで移動してくる。この「手をつなぐ」という行為は仲直りの証なのでしょうが、それによって二人の相互理解に近づいた、ということを表現しているのが、二人で並んで歩いているシーンですね。


さて、一番最初の話題に戻って、なぜ「一方的な理解」を主軸にしたことで、「モノローグの排除」を達成しえたのか。最初にあげた4つの恋愛アニメは、つまるところ、キャラクターの心情描写を至上命題にしていて、キャラクターの感情の接触から自然に生まれるドラマが、作品を構成している、と見ることができると思います。「ささめきこと」の第一話は根本的に違って、「観察する側・される側」という非対称な「関係」が主役になって構成されているのです。「関係」を中心に置いているから、一人の中で輪が閉じる「モノローグ」は登場する余地がないのです。また、「ささめきこと」においては、多くの人物は「監視する側」であると同時に「される側」でもあり、それによって多面的にキャラクターを捉えることができ、深みのある「心情描写」が実現されています。ただ唯一、主人公である純夏だけは「監視される側」にはなりません。だから彼女にだけ「一人で物思いにふける時間」が用意されていて、「ひとりごと」あるいは「モノローグ」によって心情描写を補う、ということがされているのですね。


明日のよいち!」がいまいちパッとしなかったので最近は忘れていましたが、やはり倉田英之さんは実力のある方ですね。今回もいつもどおり全話脚本を書くのでしょうか。菅沼監督…はあんまりよくり知りません、ごめんなさい。「こどものじかん」も見てないしな…。
次週以降も期待しております。